今を生きる

スペインはバレンシアからきままに 日記を書いていきます。 今を常に念頭におき、 見性を体験することを大目標にします。

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少林窟道場参禅記2回目(完)

下山


会社のことで悩まれ夜もうなされていた方ですが、驚くほどにすっきり。「今できることをただやってあとはその時その時で。」とさっぱりされて、老師一同びっくりしたものです。

そんな同志たちと最後までご一緒したいのはやまやまでしたが、お二人を残し、予定通り1日早く下山、後ろ髪を惹かれる思いで、一人少林窟を後にすることになりました。


帰りの相見の間で、老師から法の妨げになるかもしれないがということでしたが、老師の最新著書「十牛図落草談」を頂戴いたしました。

「十牛図」は、牛を悟りに見立て、修行の過程を十段階に分けて、イラストで視覚化した画期的な中国の祖録です。

落草談とは「俗人のために仏法を分かりやすく説くこと」だそうです。

修行者と老師の問答付きで、実際読んでみて本当に分かりやすかったですし、原文の漢文、現代語訳、イラスト、とても読み応えのある楽しい本でした。

帰りの新幹線、飛行機で一気に読んでしまいましたが、心の辞書、心の指南書としていつも手元に置いております。


そしてこの度の老師のお別れの法話には、心を揺さぶられるかのような大きな感動を受けました。

この法話の後には、もう何も言葉がありません。


合掌






法話「楽黄雲」


何か得たものを持って帰ると必ず失うからね。

その真意は何かというと、何もかも捨てて空っぽになって帰る。

そしたら失うものがないから。


「わかった!」これだというものを持って帰ると必ず失う。

空っぽだから何も失うものもない。

心の中で争うこともね。

こうだろうか、ああだろうかと迷ったり争ったりする動機がないから、

だから淡々とやっていける。


一番ここに来て帰るのに、こい願うのは、得るものなしに空っぽになって、

持ち物なしに帰っていくこと。

これが一番自由で楽で、一番救われている状態。

行じきって徹した時が祖師になった時、その人だから。

得るものがある間は必ず失って迷って、何もなくなってからっぽになって

知らん顔してただ淡々と縁のままにやっていけるようになったらいい。

その時に真実の様子がわかる。

自ずから真実の人になるから。目覚めるから。


こうしているときはこれだけ。(お茶を飲む)

どこにいてもいつでもそういう心得でやんなさい。

何かをつかむと掴んだ分だけつかもうとする己がついてまわるから、

自己を捨てるとはそういうことです。




今、床の間にかの有名な雲問大師の敷き写しをしたと記載されている書が

かかっているんです。

雲門大師が書かれてるものをその通りになぞった書き写した書なんです。

それはどういう風に書かれているかというと、




時至ってげんをぼうずるところ詩なし。

君に贈るべきは、再び今まさに別れに臨んでの意、

一点黄雲におつ。




時至ってというのは、時尽くして、語り尽くして、もう何も言うことがなく

なった時、語り尽くして空っぽのところ。もう何も言うことがなくなった。


そこには気の利いた詩であるとか何もない。


今、別れんとする君に贈るべきものは、別れの意、別れの時の心は何かと、

何もあったらいかん。


空っぽでなくては。

そのために法を求めてきたんだから。

その別れる時だからますます空っぽになって。



ちょうどその頃、黄色い雲がかかっていたんでしょうね。

支那では黄色とは色の中心で、黄金の色でしょう。

一番尊い色、美しい色、素晴らしい色、黄色い雲がかかっている。


おつというのは徹する。それしかないぞ。

見てみろあの黄色い雲、ただそれだけなんだ。

他に何もないんだ。それが雲門の心。


別れる時に君に何か気のきいたことを贈りたいが、そこなんだ。



空っぽになって帰れ!






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少林窟道場参禅記2回目(12)

6日目


朝日がガラス越しに入ってきたので目が覚めました。

翌日の早い下山に向けて午前中は、自分の身辺、使わせていただいた所の
跡を確認するかのように掃除、洗濯、布団干しをさせていただきました。

少しずつ昨日のお酒が抜け、我に返り、頭によぎった自分の失言に
愕然としてしまいました。

口をついたひと言でした。


「何度足を運ぼうが、自分の努力心がなければ見性できるものではない。」


自我は私の油断した隙を今か今かと待ちぶせしていました。


絶望を経て、夢も希望も捨て、今に徹することに努力三昧してきたつもり
でおりましたが、、、、

それがいつしか見性というお宝を目指す将来の目標に摩り替えられ、
そして”自分”でどうにかしようとしていたのです。


それは今までに十二分に何度も何度も確認してきたつもりでおりました。

人参のように何かをぶら下げてしか生きていけない性分、
なかなか手強いものです。




お釈迦様は王子という地位を捨て、国を捨て、家族を捨て、6年ほどの難行苦行の末、身体を痛めつけても悟ることは不可だとやっと瞑想にたどり着き、まもなく悟りを得ました。

達磨大師は、インドから中国に渡って面癖9年。

そして中国の唐と宗の時代の祖師たちは、手、足、指がなくなろうが、
また自分の子どもを殺してまでも悟りを求めて、命がけで師から弟子に
伝えられてきた様子。

日本の道元禅師。
幼少の頃から大変聡明で、3歳で父親を亡くし、4歳で中国唐期の詩集を
読まれ、7歳で「春秋」の解説書を読まれ、8歳で最愛なる母親を亡くし、
仏法へ目覚め、9歳の時には仏教の入門書をも読まれています。
そして13歳で出家された道元禅師でした。24歳で正師を求め中国に渡り大悟。


そんな偉大な祖師たちの禅の歴史に触れると、自分の今いる生ぬるい環境で
見性を求めるのなんか絶対無理と諦める気持ちとは裏腹に、見性をすることで駄目な自分を最後死ぬまでには挽回できるかもしれないという潜在的な気持ちがどこかに潜んで、日々膨らんでいったのでしょう。



仏道をならうというは自己をならうなり


老師の法話で何度も聞いているこの道元禅師のお言葉。

あらたまって「仏道をならう」というと、悟りの世界がどこか遠くにあるような錯覚に陥りやすいものです。しかし、他に求めてえられるものではありません。道元禅師はひと言「自己をならうなり」と力強くおっしゃっておられます。自分のぬいだ靴やスリッパは揃っているか、身じまいを正し、心を正すことから仏道は始まる。



思えば、いつも外に解答を目指してきた半生でしたが、何も求めず、今自分にできることを丁寧に心を込めてやっていく決意がここでようやくできてきました。


今までも何度もレールを踏み外してきております。これからもそうでしょう。
しかし、この道を続けていきさえしたら、軌道修正していくことは可能です。


自分の失言から私に潜む新たなる自我を見つけることができました。

浄化、坐禅をしているからこそ、この傲慢な自我という地雷を持っていることに気づけたのだと思うと、浄化、坐禅との縁に感謝せざる終えません。


続く

少林窟道場参禅記2回目(11)

5日目

昨今の進化した電化製品のお陰で、ワンタッチで何でも出来る時代になってきましたが、少林窟道場には、昔ながらのものがたくさん残っていて、
ホットします。

ここでのお風呂は釜風呂です。

お風呂は2,3日に1回ほどしか炊かないのですが、寒いからでしょうか、今回はほとんど毎日のようにお風呂に入ることができました。

薪で焚くせいでしょうか、体が芯から温まります。私も今回は古参の方のご指導にて、お風呂を焚かせていただきました。

まずは、前の燃えあとの灰を取り去り、畑にまいてきます。肥料になります。

そして、薪を手斧で小さく割る作業が必要です。日頃、斧などを見ることさえも使ったことすらもありませんでしたが、自分の手をぶつ切りそうになるので結構危なかったです。

でもその危機感を認め、斧を持つ手の感覚と薪に意識を置いていると何の問題もなくすんなり割れるからとても集中して、やり始めると薪割りそのものになって楽しかったです。

ダンボールの端切れにマッチで火をつけて、さきほど薪を割った小さな木を数本入れて、火を起こします。火が広がったららそこに大きな薪を入れていきます。

釜の蓋を閉めます。

薪にどんどん火が燃え広がり、火力が大きくなっていきます。

外が寒いだけに火の近くにいるとポカポカとしてきて、少林窟の黒猫グループが寄ってきて、私が坐っていた丸太の切り株を取られてしまいました。

猫ちゃん同様私もすっかりお風呂の釜の前で燃え上がる火と共に暖をとって、
単を練っておりました。

火の燃え広がる音、様子を目でとらえ、熱さを体感しているうちに薪は灰に変わり、火力が小さくなってきました。

お湯を見ます。上のほうだけ熱く、お湯を掻き混ぜるとまだぬるかったので、薪を足してもう一度火が大きくなっていきます。

しばらくするとようやくお湯も全体に熱がわたり、ようやくお風呂の準備ができました。

古参の方3人は全員下山されて、本日のお風呂は私達3人と秀蓮さんの4人です。全員が入り終わるまで、お風呂のお湯を一定に保っていなくてはいけません。

修行者のお一人に入ってもらうために声をかけることになりました。参禅初めてお顔を拝見しました。

お風呂から出てこられたら、あのぐったりされていたのもすっかりお風呂で洗い流され、英気がみなぎっているかのようでした。

秀蓮さん以外、お風呂に入ってもらい、私のお風呂炊きの作務も無事に終えることができましたが、私にとっては一番好きな作務となりました。



小さい畑には今回は旬の大根を育てておりました。きれいに洗ったら無農薬なので、皮ごと食べれるからとても栄養価が高いです。

そしてあのぴりっとした辛口の味は、薪の灰を肥料に自然のサイクルで、そして土ならしを良くされているからでしょう。立派な大きなピチピチとした大根がたくさん育っておりました。



老師は大体のことは何でもご自身でやられておられますが、お料理の腕もかなりのようです。

海が近いので、漁師の方がよくその日に釣れた魚を持ってきてくださるそうですが、新鮮な魚をさばくのも大変な作業です。

今回きれいな透明の色をした、等分に薄く切られた、たこをお刺身で大変おいしくいただきました。

老師が下処理をして茹でられたようです。
老師がおっしゃるにはゆで加減が要だとおっしゃっておりましたが、今頃生でタコが手に入ることなどなく、こうして老師の手によって下準備されたタコの味は絶品の味でした。


元々栄養士としても働いた経験のある秀蓮さんですが、この老師にお仕えして長いこともあり、お料理がお上手なのは納得です。そしてまたその手際の良さといったら本当にびっくりしました。

台所で何回かお手伝いをさせていただきましたが、動きに全く無駄がないというか、そのフットワークに驚異を感じるほどでした。そして全部用意ができたら台所はすっかりきれいに片付いています。お見事としかいいようがありませんでした。



古参の方たちを交えての食堂での問答、法話は緊張感で一杯でした。そして何よりもその凛々しいいお姿は、自分たちの模範となりうるもので、そこでただご一緒するだけでとてもありがたかったです。

その古参の方々も全員下山され、私達3名だけになってしまいました。


お風呂から上がり、台所にいくと、もう既にテーブルには所狭しと一杯のご馳走が並んでおりました。

私達の頑張りを喜んくださり、乾杯していただきました。

この5日間ほど、全くおしゃべりなどしておりませんでしたので、その緊張がほどけ、大いに緩んで老師、秀蓮さん、同志たちと飲むビールの味は格別のものでした。

夜中2時近くまで食べて飲んで、老師もすっかりお疲れのようで食堂を後にしました。

私達3人は、すっかりあの5日間から開放されてもう旧知の間柄のように心を開いて後片付けをしておりました。



しかし、ここに私のぬかりがありました。緊張が緩むと途端に自我は何を言い出すかわかったものではありません。

何だか酔った気持ちよさと緊張が緩和されて、自我はそこに忍び寄ってきておりました。


続く

少林窟道場参禅記2回目(10)

5日目

会 社のことで大変悩まれて、いつも老師に相談をされていた修行者は、
あまり寝れないせいか体調も悪くなってきているようでした。

ぐったりされ、体力も気力も すっかりなくそんなピークの時に老師とのお二人での問答で随分と気持ちのほうは少しではありますが、軽くなってきているかのようでした。

ただ一息を守ること腰を捻ることだけを忠実に守っておられるようでした。

老師から「まだ会社のことがぴょこぴょこ出ていますか?」と聞かれ、
鼻咳声で低く、「いえ、もうでておりません。」ときっぱり答えておりました。



もうお一人の修行者は、もともと何か大きな問題があったわけではないようで、純粋に禅に惹かれ、菩提心を持って参禅を決意しただけに、順調に坐禅に専念できて、一息が自然にできるようにまでなり、今までの癖の自己が抜け、視界も開けてきているようでした。


私はというと、何も騒ぐものもなく、静かで、このお二人の純粋な真摯な姿勢に助けられてか、真冬の禅堂での坐禅が辛いということは一切なく、ずっと禅堂で坐っていたいと思うほどでした。


このお二人とのご縁に大変力をいただいたそんな感じでした。


老師からは参禅3日目にこのような法話をいただいておりました。
今こうしてお二人の同志の変化にこの老師の法話が本当にそうだと
合点のいくものでした。




法話「三日目」より




落ち着いてきたときは、いわゆる世間のいう落ち着いたというのではなく心底大きな池が波風がなくなって鏡のようになってきつつある。

ああいいう深い落ち着きが感じられるようになってきていると思うんですよ。

自分のしている行為行動、こうした食事にあたって、箸を持つ、つまみにいく、お椀に運ぶ、口に運ぶ、口の中でそのものが舌と噛むことと、展開をしていくこの作用、様子が自然な形でよく見える。

これは身と心とが一つになってきた証拠なんです。一つになってくるからしておるところに心がきちっとそこにある。


逆説していえば、いままで跳びまわって、ああじゃ、こうじゃとこれは上手いといっていた理屈がとれてくる。

つまり、自我がとれて、ありのままの自然の作用に準じる力がついてきた。

それが身と心とが一つになってきた、親しくなってきた様子。


それで本来全ての味感覚が、いつでも口に存在しているんですが、心がそこにないから、あっちいったりこっちいったりして理屈を言っているものだから、それが知覚できなかったんですよ。

ところがいらん作用がおさまって、波風がおさまってくると、池なら池、水なら水の本来がそこにきちっとし始めたから。

口なら口の本来持っている機能、味感覚が本来自然にそこにあったことに気がつき始める。

だから一嚼み一嚼みがとても新鮮で、口の中の様子がとても明らかで、いろんな味感覚がそこに存在して、喉を通過すればすっかりそれがなくなって、次のものを入れたらまたその味がそこに展開されて、そこに味というものが何であるかと追求しなくても味はその時限りの様子。

つまり味という実体は何もないんだけど、感覚として仮にそれが明らかにその時だけにある。

これを空の働き、無の働き、無の様子といってもいい。本来はそう。


こちらが理屈を言う自我がとれて身と心が親しく一つになればなるほどに、その自然の自由のありのままの様子が、実体がないがゆえに、自由になる。

その時の縁の様子が、我々の全てだということがわかる。

これが釈尊が到達し、発見された真実の世界なんです。



音においてもばかやろうといっても、ば か や ろ う。

犬がワンワン、赤ちゃんがギャーギャーというのと耳においては同じ事。

そこを識別してつかまってしまう。

そこから俺に向かって何を言う。お前に言われる筋合いはない。

そいういものがばっと触発されて、怒りになったり憎しみになったり恨みになったりそういう感情が引っ張り出されてくる。

ところが、本来、耳というのは一切そういう概念やら過去の情報とは一切関わっていないから、言いたい放題、何でも耳は何でも受け入れる自由がある。

で、一つも残っていないでしょう。

目においても、何を見てもどんなむごたらしいものを見てもその時限りの仮の様子で写っただけ。

鏡に例えるなるば、鏡が何を写していても鏡には一切何もあとかたも残っていないでしょう。

我々の目においてもそうなんだ。そのことが本当に体得し得た時が悟り。



初めから拘るべきものは、何もないということがわかる。これが解脱の消息であり、本来、涅槃寂静であったということ、もともとが。

それが即今底、今を一息を守り尽くす。

一息になりきることによって過去世のひっぱってきた、この身体にまつわりつき、生まれて培ってきた経験値とか知識というものが一線を画す。

知識がなくなるわけではないですよ。それと本来の普遍不滅の因果の今の様子とは関係がないんだといことがはっきりするんです。

この一息を軽く見ないで。

即今底を軽く見ないで、いついかなる時も今をはなさんよう、ぬかりのないように、余念をいれず、行じていればいい。

そうすればそこにしかいきつくところがない。今しかないから。それしかないから。

食べる時にはこれしかない。誰がやってもこれしかないんだから。

そこに行き着いて、これはこれであった。もともとそうであった。誰もそうであった。

その導入方法が見えない癖を相手にしなきゃいけないから。

やや見えるようにして手探りですすめていくのが一呼吸一呼吸なんです。こうやって一呼吸は実体が何もないでしょう?吸う時にはこれが実体なのです。

身体をどんなに解剖しても吸うという物体があるのでなく本質があるのでもない、縁として我々の命を支えている作用がそこにあるだけだから。

吸う作用、吸う働き、吐く作用、吐く働きの自然の無我の、無我になりきるためにまかせきっていかないといけない。

実体がないながら作用がある。実体がないながら宇宙を構成している因果の様子がわかってくる。これが仏法。これが仏性。言葉を神々しくいえば。

今の因果の働きの様子のことをいっている。本来は空である。本来、因縁だけのものであって、個人的な意識やら価値観やら、概念とは一切関わっていない。

だから個人的な意識、認識、分別をとりはずし、じゃ、どうすればいいかというと、どうもせずに一生懸命吸うて、吐いて坐禅していればいい。

こんな話がわかるようになったでしょ!



ただただ本真剣で、深くゆっくり入って、明晰に吸うて、
この繰り返しをやっていたらいい。

そうしたら自我というものはすぐ認めて、理屈を言おうとする。

認めるものが何もないんだということがはっきりしてくる。あってはならんのだ。

今度は法に任せてただやっていればいい。法にまかせるというのはその時その場、その様子に任せて。

そしたら相手がなくなってくる。相手がなくなってくるというのは
こちらの自我がなくなってくる。相手ながら本来一つだということがわかってくる。

天地と同根、万物と一体という言葉がそこに生きてくる。

これが即今底の様子であり、この様子を心底自分の体験を通して
そうだとこの自覚、消息を会得しないと、ツクリモノになるから。
融通がきかなくて役に立たない。

やっていることは同じ。祖師も口で食事をし、目で物を見、足で歩く。

我々と全く同じなのだけど、その消息、そうだということをはっきり
捕まえておかないと役に立たない。

なんなれば癖の自己が出てきて理屈を言うから。



今日、明日が皆さんにとって非常にとても貴重な時なんですよ。

大きな修行において大きなポイントが時節がやってくる。

益々念密に深く没入するようにやるんですよ。

そこには遅い早いがないですから、可能な限り、ゆっくり動作していくことで
深く没入してこの道が開けるから。

粗暴にしないこと。やりっぱなしにしない。

とことんそこに全智を投入しきってやっていく。

そしたらそれ以上やる方法がないから。

別に法はないんです。


続く

少林窟道場参禅記2回目(9)

4日目

3日目にして初めて後片付けの作務をされた修行者の方ですが、

宿坊から見える景色が以前よりもくっきりはっきり見えてきたと
おっしゃっておりました。

そしてまた坐禅中での不思議な体験を老師に尋ねておりました。


法話「徹底馬鹿になる」から


(修行者) 今日午後に不思議な呼吸というか、軽い呼吸が午後に一度
出まして、その後、呼吸が不思議に軽くなりまして、これは身体の現象
なのか、坐禅の一息を守ることに関係しているのでしょうか?

(老師) もちろん、もちろん。体調の問題以前に呼吸は知らない間に、
人間として生まれてきた時にはもう知てたんよ。知らなくて、
していたんだ。それが自然の呼吸というんだ。

煩悩も弱く、雑念も弱く何もなくなると空っぽの本当の呼吸ではないけど、
今までのようなたけしい想念やら妄念からぽっと外れた自然な呼吸に
気がついたというか、いたったわけよ。あれが標準なんだ。

(修行者) とても楽でして、肺活量が大きくなったような感じが
しまして。呼吸が勝手にもうしています。

逆に私は今まで意識を、余念をいれないように集中していたんですが、
ちょっと逆に戸惑ってしまいまして。

(老師) やりようがないから。誰でも驚くんだよ。ただなかなかそうやろうと思ってもできないでしょう?

(修行者) 逆に邪魔になってしまうような。呼吸は呼吸で、
身体も捻ることをしなくてもしていて、呼吸は呼吸でしているような。

ただ妄念はまだあるような気がします。
ただそれとは関係なく動いているような。


(老師) 自然な呼吸に初めて突入したんだ。

あれが何遍も出てくるようになり、それがずっと継続持続できるようになってくる。と同時に反対に妄念想念、今坐禅しているんだから、坐禅以外の心、必要ないでしょ?坐禅が心、心が坐禅になっているから、想念する必要ないでしょう?

不必要なものが不必要だと自ずから道が整理してくれる。自然の呼吸になればなるほど、自然な道、自然な真理が無用なことは無用だと無意識のうちにかたずけていってくれるのよ。

だから正しい方法でないとなんぼ道理がわかっても実があがらない。実が上がるというのは楽になって救われていかないといけないんだから。本当のことがはっきりしてこなくてはいけないんだから。

そういう最初の気づきなんだ。


(修行者) これはただ呼吸に任せて、

(老師) そうそう何にもしないでいたからそういう呼吸ができたんだ。

何にもしないように呼吸を守ろうともせずに呼吸にひたすらついて
一心にしとればいい。

(修行者) 妄念が出て来ましたら今までは排除するよう、
切るようしていたんですが、それも今は自然に任せればいいんですね。

(老師) 放っておけば次の一瞬その消えるから。

初めは切って、切っていかないといけないけど、、、任せることはできないし、離れることはできないから、妄念が一回出てしまうと雪だるま式になってしまうから。妄念をいれんように一息を守りつくさんといけないんだが。

この手順を間違えるんだ皆。行じるとはそういうことなんだ。

徹底ばかになって、素直に自然に任せて。ありのままの呼吸に徹底任せて、知らん顔して虚しく時を送っていればいいんだ。

(修行者) 身体を捻るとのいうのは?

(老師)  うん、した方がいい。身体の調子がいいから。
いい状態が長続きするから。

もちろんするのを忘れて一心不乱にするのはいいんだが、それでまた思い出したように身体をやわらくしてあげなさい。これが疲れがとれる法であり、疲れにくい坐禅だから、その分だけいい状態が持続できる。

そのまま一呼吸に突入して我を忘れていったら悟りのほうからやってくるんだから。


(修行者) 何が起こったのかびっくりしました。

(老師) ああなった時は皆びっくりするんだ。
今まで頑張って、呼吸を守っていくという対象がはっきりしておったんだが、はっと呼吸がおらんようになるからね。

何を頑張っていいいんだろうか?今までの修行とは関係ない修行になってしまうんで、この時の修行はどうしたらいいんかと思いをしてしまうんだ。

その時に法を良く聞いておけば、それは自然になってきたんだから、自然に任せて自然の呼吸にただあればよい。

自然におこったことは自然が解決してくれるから。
言われたことを一呼吸を守って自然にしていればいい。

雑念が出ても出てなくても一心不乱に吸うて吐いてしていればいい。
頭でするんでなくて全身でやって吸うて吐いていればいい。

君が一生懸命守ってきたってきた結果が形になりはじめてきたということ。
確信を持ってやりなさい。

続く

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プロフィール

valenciana

Author:valenciana
スペインはバレンシアに
住んでいます。

インターネットのお陰で
禅の世界に導かれました。

「縁と無常」

あるがまま
ただ生かされていることに感謝する毎日です!


”幼少の頃は夢中で遊んでいました”
いつしかそれがかすんできました。

またあの頃の
感覚を思い出すことが多くなりました。

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