今を生きる

スペインはバレンシアからきままに 日記を書いていきます。 今を常に念頭におき、 見性を体験することを大目標にします。

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少林窟道場参禅記(参禅3日目)5

                11月16日火曜日

昨日の早朝坐禅地獄から明けて一日。


昨日のこともあるので、まずは生姜湯を飲み、体を温めてから禅堂へ行き

ました。今朝も同じように禅堂は、冷たく暗く薄気味悪かったです。


私の長年の体の癖は、生姜湯ほどですぐに変わるものでもなく、

ものすごい眠気がまたやってきました。


今日は、潔く宿坊へ戻って寝る大胆な自分がいました。

太陽の日差しと共に再び目覚め、禅堂に直行しました。


とにかく一息、一捻りをがむしゃらにやっておりました。経行も行いまし

た。相変わらずも雑念は、アメーバーのごとくドンドン吹き出てきます

が、出てきてもただやっている自分がいました。眠気と、寒さが収まった

ことがもちろんよかったのでしょうが、吸うに吐くに捻るに全神経

を注ごうと努力している自分がそこにはいました。


昨日の地獄を経験しているだけに今日は、あまり何も感じませんでした。

再び、お茶室へ行きました。そこへ老師がいらして一緒にお茶をいただく

ことになりました。

老師から”丁寧さと真剣さ”ということで法話をしていただきました。

 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

気持ちの流れがよくなってますから、妙な重苦しさが消えてなくなってい

るから坐禅自体が楽なんですが、おしゃべりしたから、言葉が出

る頻度が多くなっている。その変わり重苦しいものがなくなって、集中力

がついているからここから先はたとえ頻繁にしばららく出たとしても集中

力のほうが勝つから。最初だけ戸惑うけど、一切問題にせず、ちょっとば

かり呼吸に力を入れて、吸うて吐いてをやってみてください。ちょっとだ

け深く、ちょっとだけゆっくり。

これを丁寧に丁寧にやっていると思わないものにぶちあたるから。

あとは真剣さです。

ちょっとだけ力を入れて、一生懸命吸って丁寧にずっとやって。

禅堂の中が一番いい。

外を出てきょろきょろせず一歩だけをやってください。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

老師のおっしゃることをそのまますぐにやりたくて、直ぐ様、禅堂へ直行

しました。


観念がいくら出ようが、一息に一生懸命くらいつくことだけに専念して

坐っていました。


時間があっという間に過ぎました。

木版のかん高い音が、とてもすがすがしかったです。


お昼は、スパゲッティでした。お箸でスパゲッティをZuzuと食べました。


食事が終わりにさしかかると、そのお皿についている汚れを大体流すよう

にしてお茶を注ぎます。そしてそのお茶を頂きます。あとで後片付けをす

る際に、洗剤なしで洗えるからです。


実際、少林窟では、エコ生活があらゆるところで実践されております。


老師からそのような細かいことを教わり、とても身が引き締まる思いでし

た。そして、私に「何か変わってきたことはありますか?」と質問されま

した。


私は、今朝の様子をそのまま伝えました。

老師から続けて下記のように法話をしていただきました。
                        (今を自覚する)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

とっておきの一息は吸い始め、吸い切るたった数秒間の吸うという行為、

それがごく自然に、静かに何の余物もなくたまにはできるようになる。

それをあのようにやってやろうと思わず、ただ素直に任せてやってお

けばいい。いつもあれがあるんだと思って、吸うなら吸うに任せ、吐くな

ら吐くに任せてただ静かに丁寧にこの繰り返しをやっていればいい。


我々の知性というのは、膨大な情報を処理するまさに人間の特性の最たる

機能だけれでも、これは、あの時はよかったという記憶されたものを引っ

張りだして、精細に記憶の中から観念で創り上げて、それと現実と入れ替

えてやろうと思うようなできないことをする。その時の事実は再びないん

だから。なのにあった事実が、過去の残影、残像として記憶の中にあるも

のを引っ張り出してくるでしょう。そして精細に思い出したものを現実と

はめかえようとする。片っぽは、絵に描いた餅。今は現実。できっこな

い。でも知性はおろかにも間違いを犯す。


事実と間違いの観念の世界との境というか、涯際というかこれが明解に

なったときが悟り。そうすると現実は常に現実でしかない。その現実は常

に流転して無くなっているということがはっきりわかる。本当に現実がわ

かるとういうことは空がわかるということ。この空がわかり、現実がわ

かった途端、観念でできたもの全て夢だということがわかる。目が覚めた

ら夢を見ないと同じで、本当の真相がはっきりしたら夢を見なくななる。


悟るためにはどうするかというと、吐くという現実、吸うという現実を

離さないよういし、現実に食らいついて、巨像であるものをそぎ落として

いく。今は雑念、煩悩、呼吸と巨像と実とかが入り交じっているから仕分

けがきかない。それを無理往生に今今として今をどんどん圧縮して不純物

を仕分けしているところ。可能なかぎり、事実の今に知性的に明確にやら

なくてはいけない。吐いている事実に知性を合わせ、自覚症状を合わせ、

じっと事実だけを見ていかないと。後にそういうものが収まってきて、現

実に本当に坐る時には坐るしかないという現実しかない。行き着いた人

は、もう何ら意を使うことなく体にまかせて素直に坐禅ができる。

そこに行き着くまで、どうでも観念をしりぞけ、空想、想像をしりぞけ

て、事実、事実、今、今とスライドしていかないと自覚の連続をやってい

かないと、境目がつかない。これが禅修行の真髄、核にあたる。


したがって、形、体に気をとられてぼけっとしてやった坐禅は100万年

やってもダメ。同時に悟ってやろうと思って、悟りを空想したり、あるこ

とを念において、やっている体と心が二人連れになると、これまた平行線

になる。一つにならないとダメ。一つになると身もなく心もなくなる。そ

のなくなった時の自覚症状が解脱、脱落。過去も一切合切なくなる。要す

るに、そういうものの束縛を受けなくなったということ。


体はつねれば痛い。辛いものを食べれば辛い。無くなるというのは消えて

消滅するという形やら何がなくなるというものではなく、そういうものの

束縛を受けなくなるほど自由になるということ。そこが囚われない世界。

空の世界。これが仏性であり、宇宙の真相。これを体得することが仏道修

行の目的。必竟、集約して言えば、今を離さないようにやる。


なにものにもひっかからないようにただやる。ぱっとやると、通常の速度

でやると、今まで忌憚なく生活しできたパターンがある。ということは動

物的な回路といかそれらのコントロール下におかれてしまうから。動物的

なものから体のしくみみから離れなくなるから何気なしにやってしまうと

今はダメ。


空っぽの心を持ってこうしてただやる。
(湯のみ茶碗を実際にとって示す)

そのためには今までの回路を使わず速度を落とす。握ったことを自覚す

る。感触を確かに確認して持ち上げる。確認をとって傾けるためにこうし

てという事実を確認する。今、今を自覚する。事実に密着する。雑

念、煩悩の癖が入らなくなってくる。頭の中の拡散の癖がとれる。それが

深まっていくと身と心が親しくなる。


親しくなってひっついているだけでは、また大きな衝撃があると離れてし

まう。徹するということは、道元禅師がおっしゃっているように、自己の

心身、こちらの体。他己の心身、外側の縁、脱落せしめるなり。一つにな

るとどちらもがおちて気にかからなくなる。なくなる。なくなったときに

明らかになったこの様子を仏道、仏性という。これを悟りといい見性とい

う。色々’言葉があるけど一つこと。何気ない動きがこれ自体が法であ

り、神事であり、仏法であり、これを離してはいけない。(お湯のみを

持って、お茶を飲む、そしてお湯のみをおく)とことんこうしてやる。



もうポイントが分かりかけるところまできているからやればできるから。


どんな姿、形になっても今だからそれを離さなければいい。縁が無限にあ

るから、今の姿も無限にあるから、今になりさえすればいい。今はど

れにも関わらない。人が死のうが、これも今、人が生まれようが、これも

今。壊れても今、壊しても今、作っても今。今はそれに関わらない。これ

が解脱の世界。つまり本当の今に生まれればいい。この身も今、この身も

なくなっても今。つまりあるなしに関わらないのが今、だから生きるとか

死ぬにも関わらない。それが本当の今であり、解脱の世界であり、空。


そうなるためには今どんなことがあっても今に任せて淡々と今についてお

けばいい。なんか出ても放っておけばいい。癖の出た今だから癖は癖だか

ら相手にしたらだめ。事実だけ。事実とは山とも言わず、空とも言わず、

青いとも言わず、静かとも言わず、木とも言わず、ただ今のままにまかせ

て大自然にまかせておけばいい。これに決着したときが悟り。この自然の

様子がそっくり自分の姿になって現れるというかそうだと合点がいくよう

になる。


天地と同根、万物と一体といった祖師がいるけど、今になりきったときに

そればわかる。今を隙を与えず、素直になんもかんも離してやりなさい。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

老師は、お話を終えると、急に「じゃ、これ、何?」と、

目が覚めんばかりに、両手を私の目の前でバチンと叩きました。



私は、そのまままた勢いよくバチンと両手を叩きました。


「うん、ただそれだけ。これ何?何にひっかかるから。耳も忘れておれ

ば、それがそれでしかないことがわかるでしょ! 

呼吸は、これしかない。他は全部作り事だから、癖であり、まやかしもの

であるから。それらの癖を取るために事実を離したらだめ。」


そして、老師が今日から後片付けをするようにと作務を許可されました。

深く合掌してゆっくりとお茶碗を炊事場に持っていきました。蛇口を捻る

と水が冷たく、とても気持ちよかったです。ご近所のおばあちゃんが編ん

でくれたというアクリルたわしと水だけで、きれいに洗いものを終えまし

た。


洗い物をこんなに喜んでやったのは人生初めてではなかったでしょうか?

                           .....続く

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プロフィール

valenciana

Author:valenciana
スペインはバレンシアに
住んでいます。

インターネットのお陰で
禅の世界に導かれました。

「縁と無常」

あるがまま
ただ生かされていることに感謝する毎日です!


”幼少の頃は夢中で遊んでいました”
いつしかそれがかすんできました。

またあの頃の
感覚を思い出すことが多くなりました。

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