今を生きる

スペインはバレンシアからきままに 日記を書いていきます。 今を常に念頭におき、 見性を体験することを大目標にします。

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少林窟道場参禅記(参禅5日目)7

                   11月18日(木曜日)

5日目に入りました。ありがたくもお天気に恵まれ、

今日も気温が上がり、禅堂にも終日陽が差し込んでくれました。


瀬戸内海の景色にも大変癒され励まされていました。毎日見る景色が少し

ずつ明るくはっきり見えてきているようでもありました。(とはいえ、老

師からは、ちらっとぐらいならいいが、外の景色をずっと眺めているのは

良くないと言われておりましたので、今日もちらっと見るくらいではあり

ましたが、、、)


これがお天気のせいなのか、それともこの坐禅の成果なのかそんなことは

どうでもいいことでしょうが、どちらにしても私を見守ってくれているか

のように感じておりました。



今日も禅堂には、老師が来てくださいました。膝の調子が悪いと聞いてお

りましたが、禅堂で坐るお姿を見ているとそんな心配などふっとんでしま

うほどでした。


「やみくもにいたずらに坐った坐禅では100万年たっても見性はありえ

ない」とおっしゃった老師のお言葉が身にしみてきました。


上山してきたときには、まだまだ雑念、妄想と格闘していたというか、

雑念に主導権があったのが、今はその雑念にはもう取り合わなくなったよ

うな感じです。


どんなに雑念、妄想が出ようが、それを放っておいておけるまでになって

きました。


実際、ここにきてから全く夢も見ずほどに良く眠れていました。

1週間とはいえ、家族と連絡をたち、外からの遮断とただ坐禅に専念す

るだけで何も心配する要因がなかったのが大きかったですが、老師、秀蓮

さんと私の3人だけという環境にも恵まれました。枕が変わると眠れな

かったりする私でしたが、ぐっすり熟睡できたことは、体力的にもここで

の修行に大変役立ってくれたました。


そして、今日の法話がそれがとても頷けるものでした。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

夢も見ないようになってきただろう? 

初めより見なくなってきただろう?

それは頭が収まってきたからだ。


今度は夢見ていることが分かるようになってきて、それを呼吸できって夢

に引きずりまわされれないようになってくる。それからの夢というのは覚

醒して日常我々が知性を使って、いろいろ判断するのと同じ回路で夢を見

るからきちっと考えて、あの支離滅裂な思考系がなくなってくる。きちん

としてくる。


それだけ我々普通人間としてあたりまえの言葉を当たり前の論理、常識や

道義に従って判断力も健全になり、思考系も健全になり、そこにはちゃん

とした真義、道義がコアに入ってくる。坐禅しているだけで頭の中が整っ

て、なおかつ思考系人格の内容までがレベルアップしてきちんとなってく

る。


釈尊が唱えた八正道というのがあって、正しく見なさい、正しく考えなさ

い、正しく行いなさいという七項目があるのだけど、最後八の禅定を練る

ことにより、整ってくる。他に多くの美しく立派な宗教や修行の仕方があ

るのだけれども、その中の禅定ということを重んじて、それを正しく行ず

ることによって、あとが自動的に備わるというのは、釈尊直系の只管打坐

しかない。ちゃんと修行する自分自身をきっちりさせないと自分が整わな

いから、どんなすばらしい信仰、修行をするのでも、修行する自分自身を

いかにきれいにするか、そこから出発した禅でないと釈尊直系の法に従っ

たものではない。


道元禅師がおっしゃるように「仏道を習うは自己を習うなり。」

自己を離したらだめ。今ただやるをはなしたらだめ。


世に多いのだけど、ちょっとだけ坐禅をかじって坐禅はあまりやらず、坐

禅を書物で知ったりするかじって知ったりする。法がわかってくるという

のは、道理が分かってくる。法がわかり、道理がわかってきたそういう人

に多いのは知識が心を支配するから知が動き出すと、まだ頭が収束してい

ないから、見るもの聞くものが気になる。特に坐禅をする人、法を説く人

が気になる。そうするとわからんことを言われると、違ったことを言われ

ると、悪口をいいたくなる。批判したくなる。これは多い。


要するに自分の覚えたこと、知ったこと信じたことが心の主になるから。

これらを捨てていくのが禅。捨てかたをしらないから、学べば学ぶほど赤

になる。


そこで三身聞法をきちっとして、いかに今をただやるかということだけを

これだけにしぼりこんで、師匠はそのことを行じさせておけば必ずこうい

うふうに結果が出てくるということを己がやって知っているので、それさ

えさせたらいいんだ。今はただそれだけをやるんだと終始一貫している。


ところが、そうでなくて法を説くと、書物を読んだと同じように、法がわ

かる、理がわかる。と行ずるよりもそこでわかると、得たようなつもりに

なる。人が気になり、人の言うことが気になる。批判をするようになる。

これは禅者でも、修行者でもない。人を批判するまえに自分がやっていか

ないと。


これから禅を語る人に出会っていくだろうけど、また、禅を尋ねられて聞

かれて言わなくてはいけないこともあるだろうけど、決して、相手が困っ

てしまうような法は説いてはいけない。どうやって説けばいいのかという

と、「今やっていることになりきればいい。」



なりきりなりきりすることによって、自分のなかの拘りがとれて、そした

ら自分の本当の世界が開けてくる。それを信じて、自分自信を開けさせて

いく。それは行じなくてはいけない。知ることではない、覚えることでは

ない。論じることではない。論じるというのは頭が騒いでいるというこ

と。相手が気にかかり、覚えた知識が気にかかるからそういうものに心を

占領されるのだ。


お釈迦様も祖師もそういうものがなくてカラッとして何もない。あなたも

カラットとしてなくなったら祖師だからね。気になるものもない、煩わさ

れるものもない。邪念もない。囚われるものもない。


そこにははっきりした自覚症状がラインがあるから。体得。きちっと徹し

たときには大きな衝撃的な事件が起こるから。それまでのものが一切落ち

るから。


ああ修行も実はいらなんだということがわかる。

修行もしちゃいけないんだということがわかる。


   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「あなたもカラットして何もなくななったら祖師だからね!」

という老師のお言葉が、私の中で響いてきました。


見性、大悟などという言葉を使うとちょっと遠い世界のように思えます

が、これならできるかもしれないという何かどこからかこみあげるほどの

希望が大きく湧いてきました。



老師はまた私に聞いてきました。

1+1=いくつ?


私が答えたのは、

1 でした。


老師は、それでもにっこりされました。


1+1=2は道理の真理であり、

1+1=1+1が宇宙大なる真理であり、

道理、思考を超えた間違いのない世界であるとおっしゃいました。


私から見ると数字の世界こそ禅に近いと思っておりました。

数字は中道の0があり、線で表すとプラスとマイナスで永遠に続き、

グラフで表すと360度に放射状に永遠に続き、

そして無限大∞があります。

特に会計簿などの数字を見ていると、人と人の関係、事実が全て見えてき

ます。


しかし、ここで驚くのには、1+1=十進法の2でもなく

二進法の10でもなくそれを超えて

どこまでいっても1+1だったのです。


禅の世界の神秘をさらに実感させていただきました。


この絶対真理を今世で体得できるかことができたらそんなすばらしいこと

はない。そのためにも”ただ素直に行ずる”ことをやっていこうと新たな

る固い決意をしました。

                           ....続く

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プロフィール

valenciana

Author:valenciana
スペインはバレンシアに
住んでいます。

インターネットのお陰で
禅の世界に導かれました。

「縁と無常」

あるがまま
ただ生かされていることに感謝する毎日です!


”幼少の頃は夢中で遊んでいました”
いつしかそれがかすんできました。

またあの頃の
感覚を思い出すことが多くなりました。

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