今を生きる

スペインはバレンシアからきままに 日記を書いていきます。 今を常に念頭におき、 見性を体験することを大目標にします。

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少林窟道場参禅記(参禅6日目)8

                    11月19日(金曜日)


”世界一厳しくもあり世界一優しくもある”と井上老師のことが書かれて

ありました。老師について書かれたこの一文を信じて、入門してきました

が、まさしくこの通りだと実感いたしました。


実際、老師は多彩なるお顔を持っていらっしゃる方でもあります。


禅の祖師方として、

法を語る時の老師のお姿は、大変凛々しく参禅者を魅了せずにはおれませ

ん。そのお姿は俗語で語るなら”惚れ惚れする”の一言に尽きます。

禅堂で坐禅される老師のお姿は水を得た魚そのままです。食事中の一箸、

一嚼みの時に入る老師の瞬時の点検は、厳しく油断と隙を与えず、修行者

にとっては、大変ありがたく”気づき”を促してくれました。


海蔵寺の住職として、

葬儀、法要、年中行事などのお仕事があります。


執筆家として、

「坐禅はこうするのだ」「続坐禅はこうするのだ」

「魂に喝を入れる禅語」などの本を出版されています。

一太郎のソフトを使って原稿書きに忙しい毎日のようでした。


講師として、

京都フォーラムに長年携わり、世界いろんな国々を訪問してきたようで

す。京都フォーラムは地球の危機に対して宗教と科学が今後どのようにし

ていくべきかということをテーマに世界中から各界の専門家たちが集って

フォーラムを開いているものです。環境問題、教育問題などを中心に老師

も禅の立場から参加されてきたようです。


このようにいくつものお仕事を兼務なされていながらも少林窟道場では、

お料理、お裁縫、風呂焚きから何でもやられるようでした。


時折、見せられるかわいらしいといったら失礼ではありますが、

遊び心一杯の子供のような目が、益々その人間的魅力をさらに引き出して

いるかのようでした。


そして最後に父親、教育者として、

老師のご長男の幼少の頃のお話をされていた時でした。

ニコニコされて終始とても嬉しそうに話されておりました。

「小学校に上がって間もない頃、担任の先生が何度も息子のことでやって

きたんだよ。全く字が読めないし書けないので、家のほうでも指導して欲

しいとね。うちの子だけが一人書けないというんだよ。実際に大変やん

ちゃだったよ。車に乗ると、後部クリスタルに体ごとべちゃっととくっつ

けて、後ろに走っているトラックの運転手に大きく手を振ってね!」

(ご自身で手を振られて目を大きくして笑うジェスチャーを交えながら)


そして続けられました。


「じゃ、そこまで言われるならと字の練習をしようと、”る”という字を

書かせようとしたら、「このくるくるしているの何?」っていって、けら

けら笑って全くどうにもならん。」
(人差し指をくるくる回しながら笑顔一杯で)

「このくるくるしているのって何?」に、昔の記憶が蘇ったのでしょう

か、もう愛する息子さんの想像力にひれ伏して、 にこにこ笑いながら 可

笑しくて笑いがとまらない感じでした。


この”る”の丸くなっている所にどういうわけか着眼してしまって、その

くるくるってなっている所に魅力を感じた子供心にかえって笑えて笑え

て、あとは何かをしようとする気持ちが失せたのでしょう。


私はその息子さんの”くるくるしているの何?”の一言がとても微笑まし

くもありおもしろくもあり、そしてそれを全く否定することなく、そのま

ま大事にされて育てあげた老師の父親としての一面に大変感動し惹かれて

しまいました。


「子育てほどこんな楽しいものはない。子供は想像力のかたまりだからそ

の個性を大切に育ていかなきゃいかん。」

子供が大好きともおっしゃっておられました。そして私の子どもがティー

ンエージャーなので、そのことに触れたらその世代ほど、携わるのに面白

い時はないとおっしゃっておりました。これも私にとっては全く意外なお

言葉でした。私の中にティーンエージャーは扱いにくいという観念があっ

たのです。


近くには廃校になった学校があるから、それを使って、禅学校をやってみ

たいようなこともおっしゃっておりました。禅をベースに学校経営をされ

たらどんなにかおもしろい学校ができるものか大変ワクワクするお話でし

た。是非やっていただきたいものだと思いました。


ところで、その老師の息子さんは一体今はどうしていらっしゃるのかと気

になりましたので、何気なく聞いてしまいました。


すると、アメリカで学者をやっていらっしゃるとのことでした。が、老師

にとっては、学者もへったくれもなく遠くにいらして中々お会いできない

のがお辛いのでしょうか、少し寂しさを隠せないようではありました。


こんなにも、多彩なるお顔を持った老師ではありますが、ひとつも偉ぶる

ことなく、参禅者と同じ目線で普通に振る舞い、私ににも普通に接してく

ださいました。


道元禅師の「仏道を習うは自己を習うなり」このことを自ら実践して

ご自身を正してきた姿勢には頭が下がります。

”紺屋の白袴”が多いなかに、貴重な貴重な真っ白な祖師方でした。


このような大変人間的魅力を兼ね備えた老師から教えていただいたことは

やまほどありますが、それよりもこれよりもこのように暖かく子供心をい

つまでも忘れない井上希道老師とのご縁にただただ感謝しするばかりでし

た。


老師がおっしゃった、”大丈夫と構えることなく縁にお任せする”とい

うお言葉が身にしみてきました。

私というものの計らいで何かをするのはもう辞めよう。このご縁のまま

に、起こってくるままに、この宇宙に全てを委ねよう!

自然にそういう方向へ向いていました。


老師からは、「ここへ入門した当時から比べると雲泥の差で、随分とのん

びりしているでしょ?」と聞かれました。


今日は、非常に順調に向上してきているというねぎらいの法話をいただき

ました。実際、いつも頭の中にぐちゃぐちゃと影がかかっていたのが、不

思議なほどに何もなくなってきていたのは事実でした。


以下は老師からの今日の法話です。
                         (無の丸出し)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

身と心とが親しく接近してくると煩悩も弱くなっているからね!。しきり

に出てきても無視してくることができる。ということは、呼吸に帰るのも

さっと、また雑念していると気がつくと自動的にさっと呼吸に戻っている

でしょ!そこまでこぎつけたんですよ。


従って、特別に力んで何かをするというような修行の域は突破しました。

こうして静かに今なすべきことに素直に順次したがって、善悪をつけず、

余念を入れず、淡々とやっていればいい。そのきわどいところがようやく

鮮明になってきている。つまり法が鮮明になっている。開けるんでも静か

にのぶに手がいく様子が鮮明に見えてきている。回すことまでも開けるこ

とまでも一歩までがはっきりわかるようになってきたはず。そこまでくる

と、よそへ飛んでいかない、よそへ飛んでいく隙を与えないようになって

きたから。乱高下の激しいところですが、訳がわからないようになって、

今どうしようかということはもうない。これをやっていればいいんだとい

う自信に満ちた、確信めいたものが出てくるから。


呼吸も静かにしかも明らかに雑念がポンポンと出てきても無視してできる

ようになってきてくる。こういうふうに心が勝手に雲遊する癖が収まるに

つれ、心の動揺、心の波がなくなるというのは、心の汚れ、皺がとれると

いうことなのです。それはどういう心の様子になるかというといつもどこ

かで不平があり、不満があり、いらいらする不安をを持ち出すような要因

がどこかにあったんだけど、それらが自然になくなってくる。不平もな

く、不安もなく今これでよしというくらいに方向が収束してきている。静

かになり、安らかになっているでしょ?


心のそういった身と心が離れて心が浮遊し始めたときから煩悩する構造が

出来上がってしまう。そこには常に妄想し、妄学し、妄念をし、それに心

が占領されるわけだから。どうしてもあっちにいけば不安が生じ、こっち

へくれば向こうが不平不満が生まれるというふうに心の波風に翻弄されて

いた。だんだん身と心が一つになってきて、自分がやっていくことに心が

ついてくれば、自然に隙がなくなってくるから波風がとれる。汚れがとれ

る。それで穏やかになる。


従って、正しい修行をすると救われていかなくてはいけない。救われると

いうことは心に問題が起きない、平安であるということ。これが一番の

宝。我々自身の外側にあること、これを境という。環境のこと。対象のこ

と。外のこと。これが気にかからないというのが一番。気にかからなくな

るというのは、目に写っていてもそのことが心を刺激しない。目に見えて

いても見えていない。聞いても聞いていない。見てても聞いててもそれを

心に持ち込まない。それは目がない、耳がないと同じ。音があっても音を

とりこまない。ない目で見て、ない耳で聞く。ひっかからない。


般若心経に無眼耳鼻舌身意というのがある。無とはなし。それは我々の

持っている感覚器官、概況の刺激を受けてどう対応するかという材料にす

るわけだ。心を動かさない。心がない。超越している。眼にひっかからな

い。耳にひっかからない。眼も耳も入ってくる刺激を超越しているから惑

乱葛藤させられない。これが般若心経の無眼耳鼻舌身意、無色声香味触

法。この無は、超越をしたということ。全て気にかからなくなってきたと

うこと。 禅くさいいいかたをすると 無の眼で見る、無の耳で聞く、無の

全身になる。無をだしてごらん。無丸出し。全てが無だから。

この世界皆無だから。無の一歩、一歩。無の呼吸をする。目のまま耳のま

ま任せきってひっかからない。それが超越であり、無である。


空っぽになるんですよ。淡々としているから。

静かにただ吸い、静かにただ吐き、静かに腰をひねる、これに終始してい

ればいい。これに徹底するということは、これをしていることも忘れ、そ

れをしている自分も忘れる、呼吸もしているのを忘れ、一切皆空という所

に行き着く。つまり即生即今、今この様子が絶対境地だということ。それ

しかない。思い煩うものもひっかかるものない何も無いから涅槃寂静とい

う。今そのものが涅槃寂静ということ。ここに行き着からざるおえない。

今だけをやっていると、、


今の心境、その入口に手が届いたから、あとはそれを握りしめてドアを離

さずに開ければいい。ドアを開けなくてもそれを握り締めていたら、自動

的にドアが開くんだ。今を離さなかったら、今の心境を失わず、じっと忘

れず、朝から晩まで時を忘れ我を忘れて、全てを放ち、見も心も放ってお

けばいい。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

                        ....続く

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プロフィール

valenciana

Author:valenciana
スペインはバレンシアに
住んでいます。

インターネットのお陰で
禅の世界に導かれました。

「縁と無常」

あるがまま
ただ生かされていることに感謝する毎日です!


”幼少の頃は夢中で遊んでいました”
いつしかそれがかすんできました。

またあの頃の
感覚を思い出すことが多くなりました。

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