今を生きる

スペインはバレンシアからきままに 日記を書いていきます。 今を常に念頭におき、 見性を体験することを大目標にします。

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少林窟道場参禅記2回目(5)


2日目後半

老師にバカになって単純なことを徹底してやることの大切さ、集中力を維持するための具体的な法話をいただき、昼食後の禅堂では3人で頻繁に経行をし、腰を捻っておりました。

老師に相談されていた方は、ご自身の会社での進退をこの1週間の坐禅にかけている、そんな印象を受けました。そしてもう一人の方もそれは本真剣で、背中合わせでありながらもそんなお二人の真摯な素直さが禅堂には充満して伝わってきました。

まだまだ2日目だというのに、きっと頭の中は収まりきれずにいるだろうに、それを一生懸命、愚直に老師のおっしゃることを頼りに坐っていらっしゃる同志の様子に、私は大いに力をもらっておりました。



少林窟での一日の流れは、5時起床、朝食は随意、昼食は11時半過ぎ、夕食は5時半過ぎくらいです。といっても起床、就寝時間は修行者の体調に準じ、自由です。禅堂は24時間いつでも坐ることができます。


少林窟道場の特徴をひと言でいえば、型にはめていないことでしょうか。
「こうでなければならない」がないのです。

管理型でなく、本人の菩提心、素直さを一番重んじているように思います。


老師の法話を日頃から聞いて、本を読んでいますと、苦行に対してかなり疑問視されております。

若いころは老師もかなり無茶な難行、苦行をやってこられたとのことでした。


坐る時には意識がしっかりしていないと、その念が入ってくる、念が消えていく瞬間をつかむことはおろか、ずっと念と一緒にいることさえも気づかない念と二人連れの徒労の修行に落ちてしまうものです。


身体を痛めつけてはいけない。身体、頭を常にいい状態で坐禅に臨むことを老師は常々おっしゃっております。

質を重んじ、その一息に対する思いは言葉では表現できないほどです。

どれだけ純粋な一息を守れるか、そこには何にも譲れないものすごい情熱を燃やし、指導してくださいます。


足も結跏趺坐、半跏趺坐に拘らず、足が痛ければ椅子に腰掛けているような状態でも大丈夫なのです。


腰捻りは少林窟独特なもので、雑念妄想を切る法剣の一つです。

身体の疲れが一番大敵と2,3呼吸毎に右に捻り、中央に戻し、左捻りと腰を坐禅中にゆっくり大きく捻ることにより、身体の疲れが取れ、眠気を取り、雑念妄想を切ってくれるものです。


1月の寒い暖房のない禅堂。

私を含め3名の修行者は、柳の木のようなたおやかさとまではいきませんでしたが、”愚直”の2文字にひたすら精進しており、寒さなど全く感じる間もありませんでした。

今日もまた夕食のお手伝いをさせていただこうと早めに台所に行きましたが、古参の方もいらして何もすることがないとのことでした。

木版の鐘の音がなり夕食の時間になりました。
古参の方が二人増えて3人になっておりました。

坐る場所もその都度変わってきます。上の壁に名札が取り付けてあり、それを確認して坐ります。

今日の夕食は、あんかけ玄米小豆ご飯でした。

総勢8人で食事をしていたわけですが、食事中はもちろん一切会話がありません。

音があるのは、かすかなお茶碗をテーブルに置く、またお茶を入れる、噛む音、飲み込む音くらいです。

普段の生活での食事中には、そんな音は全てかき消されているものですが、少林窟道場では耳に伝わってくる音が普段と違いました。

食事が終わると、老師が開口一番「何か質問がありますか?」と聞いてきました。

以下

老師の法話「一息」より

修行者

一息をずっとしていると吐いているか吸っているかわからなくなって、そのままずっといくと、薄い意識の中では吸っているか吐いているかしているんですが、その後に子どものようなものが出てきて、その”子ども”は今は放置しているんですが、そのままでよろしいですか?

老師

自然現象は煩悩妄想で無い限り、自然におこってくる。

心の様子が自然が解決してくれるから、分別をしたり理解したりせずに転がして、ただ本命である一息一息を忠実にやっていけばいい。

一息以外のものに心を取られないようにすること。

何が出てきても捨てることです。

釈迦であろうと、祖師であろうと、出てきたものは全部無視。
取り上げると今のように問題が起きてくるんですよ。

疑問視はあらゆる知的行為を起こさせる原則だから。何だろうかと疑問視の起こらない疑義の念の起こらない人は、何を見てもへいへい淡々なんですよ。

ところが、ひょいと意識をそこにいって、何だろうか?とこういう念が起きた瞬間、解決がつくまでそのことがずっと心のなかにこびりついてしまう。

それほど人間は知的存在なんです。

分からないこと疑問が出てきたらそれを解決しようとする生き物なんです。

これが煩悩のもと。迷いのもと。三界六道を輪廻するもと。

今、正修行に入っていますから、そういう一切の心の作用に触れないこと。

何が出てきても一息で切っていく。

一息は何でも切る法の刀なんです。これを法剣といいます。

法剣を握りしめて何が出てきても切っていく。これに徹すればいい。

最後にはちょんぎるものもなくなる。
ちょん切るものもなくなるから法剣がいらなくなる。

つまり修行という特別なことをする必要がなくなる。

ありのままのただ吸い、ただ吐くに任せておけばいい。

今は法剣がいりますから、離したら駄目ですよ。

切るものもなくなったら法剣もいらなくなる。

つまり特別な修行も邪魔になってきますから、修行ということなしに石仏のように時を過ごしておけばいい。

これを修行無き修行。

これが本当の修行ですから。大自然のままに任せておけばいい。

富士山のごとく、大海の如く。自然界に任せて、自然界のまっただ中に我を忘れてただあればいい。

今のあなた方には法剣が仏祖の命を得るためには必要ですから、しっかり握りしめて真っ向勝負して切って切りまくっていかなくてはいけませんから一息を離したら駄目です。


続く


合掌

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Author:valenciana
スペインはバレンシアに
住んでいます。

インターネットのお陰で
禅の世界に導かれました。

「縁と無常」

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”幼少の頃は夢中で遊んでいました”
いつしかそれがかすんできました。

またあの頃の
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