今を生きる

スペインはバレンシアからきままに 日記を書いていきます。 今を常に念頭におき、 見性を体験することを大目標にします。

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少林窟道場参禅記2回目(7)

3日目

「林窟道場のうどんは何故黒いのですか?」

私は、何も考えることなく、休めていたお箸をとり、鍋の中のうどんを掬いました。
そして「少林窟道場のうどんは黒いですか?」と頭の中で言いながら
そのうどんを見ました。


以下老師からの法話で、「菩薩」です。


禅を語るときにまっさきにでてくるのが、もちろん釈迦であるんだが、今日においては達磨大師、そして六祖大師が出てくる。これは正統派に禅を語る時の様子なんです。

その六祖が曰く、「万却に迷えども悟る時は一瞬だ。」

その後が大事なんです。知恵分別、悟って自分が楽になり気にならなくなり生きても死んでも超然とする力を得たとしても、それだけでは釈尊の心には届かない。知恵分別を使って世のために光にならなくてはだめだといういい方をしている。

つまり、経験、学識、分別力、これを十分にいかしなさいということ。

さっきのでもちょっと分別を使ったらすぐできることでしょう?私がちょっと手を添えたでしょう?(食事中に修行者の作務衣の袖がテーブルの上のお茶碗についてしまおうとしたものを、老師がそのお茶碗をどけた。)
大げさにいえばこれが慈悲なのよ。社会的にいえばちょっとした愛、仏教的にいえば菩薩行という。

何も人のためにとか、世のためにとかでなくて、君のためじゃないのよ。私が見てそれが不自然だから。私が納得したいからそれをする。

菩薩の菩薩行は、ためにしてやるというこういう対象があって、強迫的にやるときには菩薩ではない。何気なしにこちらが見てて、子どもが井戸に落ちんとするときに飛んでいって助けるでしょ?それは相手に対して何とかしようとかではなくて、自分が見捨てておけないから。

これを総じて、全体その人となった時、仏という。慈悲の塊になったとき、そういう行為をすることをかえりみずしてそのほうがいいんじゃないか、自分がそう思うからそっと手を添える、それを菩薩行という。スリッパ一つ整えるもの、履物を一つ整えるもの菩薩行。

禅は菩薩行、慈悲の人にならなくては意味がない、慈悲の人になるということは、自我があってはできない。自我を殺すのはバカになることで勇気がいりますよ。自我があってそれを実行しようとすると自分の中に馬鹿馬鹿しいというのがあるから。人のことをしてやる必要がないじゃないかとそこに人が出てくる。損得が出てくる。こういうものがわ~と出てくるのを押し殺してやるのはとても勇気と努力がいる。これを自分の問題としてさらさらやれるのが菩薩。

あなたは会社があったり、人があったり、兄弟があったりしたりしたらとても対立からは免れないから。ただ菩薩行をするように馬鹿になって帰ればいいんだ。馬鹿になるということは意味のない一息がいつまでもできる人。一歩が、こんな何でもないことがをこれを楽しみ、これを愛し、これを大切にしてやっていくことができる。

世間の価値観とは全く違うから。世間で偉い人になっていくための勉強をして、権威をつけて、人よりも上座にいって、人よりも偉そうなことを言いさえしたりしたら偉くなっていくそれとは真逆だから。そういう世間が喜ぶことは人にゆずって、自分は菩薩行をやっていく。

己を必要とされる人に出会って。見てくれる人がいたらとりあげられてくれるんだ。この人に任せておいたら間違いない。こんな大事なことはあの人にしかできないと見てくれる人がいたら引き上げてくれる。これが縁なんだ。

自ら上がろうとしてもがくと、取り憑かれたようにしてがんじがらめになって腹は立つ、認めてくれない。憎しみは出てくる、心の始末がつかなくなる。ところがバカになったら下座、上座そんなことで喜ぶのなんかそれはその人たちに任せておいて、平気でやっていけるようになる。これが菩薩。これが仏の慈悲。



我々は男だから生の生きた人間を生むことは永遠にできないけど、女性はまるごと人を産んで育てる。釈迦も達磨も皆女性の働きだよ。

女性たるものは赤ちゃんが夜となく昼となくあ~でもない、こ~でもないといって、自己存在として生きていくために何でも要求するけど、親はそれに対して何の見返りも認めない、ただ尽くすだけでしょ。

これを神にも仏にも勝る慈悲というのよ。我々人間が何で仏の要素をまるごと持っているかと言いえるかというと母親を見たらわかるんだ。あれは母親でないとできない。寝ても冷めても子供のことが気になって、尽くしきっていく。

こういう本来、慈悲を人間皆持っているから。だから仏の子であるといわれる。全体、それが可能になるようにしていくためには自分が女であることも人間であることも生きていくことも超えていったときにあの慈悲が全体になっていく。

己なくして知恵分別の上にたって、それが一番私が納得できるからそうしてやっていくだけよ。それで知恵あるものは、知恵と財力を司る人たちと相談して
ここに橋をかけようよ、ここに鉄道をしこうよ。この河川を直そうよといって、知恵分別を用いて、今日のようにしてきておるわけよ。

世の中の働きは知恵分別を用いてやっているんだけど、そこに欲が入ると、両者の欲が主体に動いた時に卑しいことが影で起こってくる。
これがなかったら素晴しいことになる。


地球上を眺めてみて、赤道直下においては先進国が存在しないでしょ?亜熱帯地方、日本を含めたヨーロッパ、あの気候の中に戦いもしてきたであろうが、知恵分別を使って、国を発展させて、文化を創りあげてきている。

熱帯地方は今日食べて、今日が満腹ならばいいというところで、将来とか人のためとか国家のためとか知恵分別が働らきかねるかるから。だから残念ながら文明が発達しそこねた。知恵分別を用いて世のため人のため働きかけていくという力が遅れたから。
力を持ったものがドンドンはいってきて、植民地にされて、凄惨な時代を迎えた時代があったでしょう?

知恵分別のあるときに慈悲まできちっと加わったら皆吊るし上げて奴隷にしていくようなことはないんですよ。同じ人として生まれてきての人生、「あなたたちこうしなさいよ」と教え上げていく風にしていかなくてはいけないんですよ。


仏道というものが地球上から消えてしまうと、こういう大乗精神そのものが消えてしまうから世は暗黒になるんです。どんなに片隅でもいいから釈尊の大乗の慈悲の精神をどこかで正統派にきちっと守り伝えていくところがないと。

口では言えてもその道をいかに体得して世に広めていくかという話になったときに煩悩の様子とか、迷いの根源が何であるかわからなくなると、それを救う道もわからなくなってくる。得たいという気持ちがあっても既に暗闇になっているからどっちの方向かわからなくなる。だからどうしてもこの道は誰かが残していかないといけない。
2600年続いてきている中の一番大事な道。

多少の時間を割いてもこれは大事なことだと気がついた人は、自分自信の問題としてこういうところにきて、坐禅修行するんですよ。

この心の根源は2600年の釈尊の源に皆つながっているんです。いつでもどこでも誰にでもできるようになってくるよというのが釈尊の心。そうなるためには自分だけでは駄目だと全体がいつでも見えていないと。そこに知恵分別がいるんです。

誰のことでもかまわないから、ちょっと手を添えてあげる。母親が子どもにちょっと手を添えてあげるのとそれと同じなんです。菩薩とはそれが自在にいつでもどこででもできる。つまり我見がないという働き。

悟って仏になって何も気にかからない。心配も邪念も何もなくなったといって、そういう人のことも見えなくて、それも淡々とやっていればいいんだというところにおりあうと、悟りという牢屋に閉じ込められてしまう。本人だけが救われているから。


それではいけないというのが六祖なんだ。空に目覚め、無を得ても無を自在に使わなくてはいけない。悟りを超えて、知恵分別を使って、より良いことを気がついたことをさっさとやっていくこと。そういう人を育てるということ。

皆さんもその大事な入り口に、ほんの針ほどの穴ではあるけれど、さっと光が見えるようになったでしょう?皆さんもそんな即今底、迷いのところと迷わない事実との境が見え始めた。境目をはっきりしていくことが悟りなのよ。

迷っているとああだろうか、こうだろうかとちょいと言われただけで、何だろうと思うのが凡人。真実がはっきりしたら誰が何といってもこれはこれ。さっきのうどんではないが、何を言われても、白は白、黒は黒、うどんそのものは言葉とは関係ない。それがわかっておったらどんなことを言われようと関係ない。

これに徹底するまでやりなさいよ。気がついても本当にものにしないと、また逆転しますからね。迷いの事項がまだ残っているから。徹した時が、迷いというものの動機がなくなる。自我がなくなるから。ひっかからなくなる。そしたら迷いは本来なかったんだということがわかる。

自我がある間は、わざわざ妄念妄学をもって迷いの世界を創るから。それが気がついた仏の目からしたら何にもないのに夢の中で恐れることはないじゃないか。夢の中で敵に襲われたりするもんだから、怯えていくんだけど。そういう妄念、妄学する癖がぽこっとなくなったら、もう真実だけだということがはっきりして、苦しみのもとや迷いのもとは何も本来なかったということがわかる。



道元禅師のあの名著ですよ、普勧坐禅儀という迷いを解決する経典なんけど、冒頭に

「道元(どうもと)円通(えんづう)」真理、道はもともと皆が自由自在に使っているんだ。目は目をするし、耳は耳をするし、口は口をするし、修行も仏も一切かわったもんじゃない、明らかに皆迷っていない。

「争(いかで)か修証(しゅしょう)を仮(か)らん。」だから、どうして修行じゃなんじゃといっていらんことをする必要がある?ないだろうというわけ。

「宗乗(しょうじゅう)自在。」もうそういう法を皆自由自在に使っているんだ。時至ったら腹も減るし、食べたら満足もするし。

「何ぞ功夫を費さん。」坐禅修行なんて、迷っているから必要とするんだけど、本来は迷っていないんだからする必要はない。

「全体はるかに塵埃を出ず。」全くこの宇宙丸ごと、迷っているもの、汚れているもの、偽物も一切ない。汚れからは脱出して関係ないんだ。

そのことが本当にそうだと合点がいかないために、そうだろうとそれが合点がいかないから、迷うから、今から俺の言うとうりに修行しろといって、そこから具体的な修行方法を論じているわけ。

こういうふうに明らかな人からしてみると囚われるということ自体、いらんことをするからよ。念を立ち上げ、感情を立ち上げ、くしゃくしゃにするから当たり前じゃないか。この癖を取れという。

じゃ、どうやってやるかというとかいつまんでいえば、

「心意識の運転を止め、念想観(ねんそうかん)の測量(しきりょう)を止(や)めて作仏を図ること莫れ。」

つまり、一切の精神行為を一旦やめてしまえ。

覚醒をして目があって、物を見、分別をし、耳あって、人間の声、猫の声、父の声、母の声を聞き分けるこの耳を持ち、目を持ち、全体の感覚器官を持って覚醒しているものがいかにして一切の知的分別を脱出するかと。大課題でしょう?

科学者だったら絶対できない話です。学者では。

そこで只管打坐しろと。禅堂にいては、ただ坐っておれ。何も考えるな。静かに息を整えて、自然に任せて淡々とただやっておれと。

原則として心を持ち出すなということですよ。

要約すればそれだけのこと。これを徹底的にやっておけと。必ず結果が出てくるから。

これが普勧坐禅儀の要約し要約し要点だけをかい摘んだもの。

本来はじめから迷っていなかったんだ。
このままで既に仏であり、真理だったんだというところに行き着くから。

道元禅師のお言葉だから信じざぜるおえない。ただそうなるためには即今底。
本当の坐禅をしないと。

坐禅は禅堂にある時だけが坐禅じゃないでしょう?食べる時には食べるそのことだけになりきる。成り切る成り切るしていると見る底、聞く底、歩く底、食べる底、坐る底、箸を動かす底、皆明瞭にわかってくるから何を聞かれても言われても言葉には用がないということがわかってくるから。

あなたが見事に「このうどんはなんで真っ黒いのか?」ということが分かったか分かっていないか知らんが、これに違いないと思ったと思うんよ。考えによって、論理的にこうだというわかりかたではなくて、これはこれだからこれに違いない。だからああいうふうな行為ができたんだ。それでいいんですよ。

つまり言葉に迷ったら駄目。
言葉は知性の世界だから。知性の世界は迷いを生み出す根本だから。今はですよ。


至りえたら知性がなくてはいけない。知恵分別をたくさん使わないといけない。

「心意識の運転をやめ、念想観の測量を止めて作仏を図ること莫れ。」

修行をして悟ろうなどとさえも思うのもやめよ。

これが天才道元禅師の血を吐くような示唆ですから。

心を使うな!

何を言われても聞いても見ても、今現実の縁のみにやっていけばいい。


今、あなたがたそこのぎりぎりの迷いと悟り、真実と偽物との境が
ようやく見え始めたところ。

ここがポイントです。ますますもって自然体で深く、歩く時には本当に歩いて、禅堂にあっては本当に一呼吸していればいい。

初めも今もこれからもこうして。

疲れとか緊張がたまってきますから折々にこうして身体をひねってあげればいい。

ただむなしく時を送っていればいい。

何の生産性もない、意味のないまま、空っぽにして

己を捨てて素直な自然な一息一息に没頭していけばいい。

これが法に目覚めさせてくれる。癖を取ってくれる。

つまり、本人の努力しか解決策はないということです。


続く

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プロフィール

valenciana

Author:valenciana
スペインはバレンシアに
住んでいます。

インターネットのお陰で
禅の世界に導かれました。

「縁と無常」

あるがまま
ただ生かされていることに感謝する毎日です!


”幼少の頃は夢中で遊んでいました”
いつしかそれがかすんできました。

またあの頃の
感覚を思い出すことが多くなりました。

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