少林窟道場参禅記2回目(10)
5日目
会 社のことで大変悩まれて、いつも老師に相談をされていた修行者は、
あまり寝れないせいか体調も悪くなってきているようでした。
ぐったりされ、体力も気力も すっかりなくそんなピークの時に老師とのお二人での問答で随分と気持ちのほうは少しではありますが、軽くなってきているかのようでした。
ただ一息を守ること腰を捻ることだけを忠実に守っておられるようでした。
老師から「まだ会社のことがぴょこぴょこ出ていますか?」と聞かれ、
鼻咳声で低く、「いえ、もうでておりません。」ときっぱり答えておりました。
もうお一人の修行者は、もともと何か大きな問題があったわけではないようで、純粋に禅に惹かれ、菩提心を持って参禅を決意しただけに、順調に坐禅に専念できて、一息が自然にできるようにまでなり、今までの癖の自己が抜け、視界も開けてきているようでした。
私はというと、何も騒ぐものもなく、静かで、このお二人の純粋な真摯な姿勢に助けられてか、真冬の禅堂での坐禅が辛いということは一切なく、ずっと禅堂で坐っていたいと思うほどでした。
このお二人とのご縁に大変力をいただいたそんな感じでした。
老師からは参禅3日目にこのような法話をいただいておりました。
今こうしてお二人の同志の変化にこの老師の法話が本当にそうだと
合点のいくものでした。
法話「三日目」より
落ち着いてきたときは、いわゆる世間のいう落ち着いたというのではなく心底大きな池が波風がなくなって鏡のようになってきつつある。
ああいいう深い落ち着きが感じられるようになってきていると思うんですよ。
自分のしている行為行動、こうした食事にあたって、箸を持つ、つまみにいく、お椀に運ぶ、口に運ぶ、口の中でそのものが舌と噛むことと、展開をしていくこの作用、様子が自然な形でよく見える。
これは身と心とが一つになってきた証拠なんです。一つになってくるからしておるところに心がきちっとそこにある。
逆説していえば、いままで跳びまわって、ああじゃ、こうじゃとこれは上手いといっていた理屈がとれてくる。
つまり、自我がとれて、ありのままの自然の作用に準じる力がついてきた。
それが身と心とが一つになってきた、親しくなってきた様子。
それで本来全ての味感覚が、いつでも口に存在しているんですが、心がそこにないから、あっちいったりこっちいったりして理屈を言っているものだから、それが知覚できなかったんですよ。
ところがいらん作用がおさまって、波風がおさまってくると、池なら池、水なら水の本来がそこにきちっとし始めたから。
口なら口の本来持っている機能、味感覚が本来自然にそこにあったことに気がつき始める。
だから一嚼み一嚼みがとても新鮮で、口の中の様子がとても明らかで、いろんな味感覚がそこに存在して、喉を通過すればすっかりそれがなくなって、次のものを入れたらまたその味がそこに展開されて、そこに味というものが何であるかと追求しなくても味はその時限りの様子。
つまり味という実体は何もないんだけど、感覚として仮にそれが明らかにその時だけにある。
これを空の働き、無の働き、無の様子といってもいい。本来はそう。
こちらが理屈を言う自我がとれて身と心が親しく一つになればなるほどに、その自然の自由のありのままの様子が、実体がないがゆえに、自由になる。
その時の縁の様子が、我々の全てだということがわかる。
これが釈尊が到達し、発見された真実の世界なんです。
音においてもばかやろうといっても、ば か や ろ う。
犬がワンワン、赤ちゃんがギャーギャーというのと耳においては同じ事。
そこを識別してつかまってしまう。
そこから俺に向かって何を言う。お前に言われる筋合いはない。
そいういものがばっと触発されて、怒りになったり憎しみになったり恨みになったりそういう感情が引っ張り出されてくる。
ところが、本来、耳というのは一切そういう概念やら過去の情報とは一切関わっていないから、言いたい放題、何でも耳は何でも受け入れる自由がある。
で、一つも残っていないでしょう。
目においても、何を見てもどんなむごたらしいものを見てもその時限りの仮の様子で写っただけ。
鏡に例えるなるば、鏡が何を写していても鏡には一切何もあとかたも残っていないでしょう。
我々の目においてもそうなんだ。そのことが本当に体得し得た時が悟り。
初めから拘るべきものは、何もないということがわかる。これが解脱の消息であり、本来、涅槃寂静であったということ、もともとが。
それが即今底、今を一息を守り尽くす。
一息になりきることによって過去世のひっぱってきた、この身体にまつわりつき、生まれて培ってきた経験値とか知識というものが一線を画す。
知識がなくなるわけではないですよ。それと本来の普遍不滅の因果の今の様子とは関係がないんだといことがはっきりするんです。
この一息を軽く見ないで。
即今底を軽く見ないで、いついかなる時も今をはなさんよう、ぬかりのないように、余念をいれず、行じていればいい。
そうすればそこにしかいきつくところがない。今しかないから。それしかないから。
食べる時にはこれしかない。誰がやってもこれしかないんだから。
そこに行き着いて、これはこれであった。もともとそうであった。誰もそうであった。
その導入方法が見えない癖を相手にしなきゃいけないから。
やや見えるようにして手探りですすめていくのが一呼吸一呼吸なんです。こうやって一呼吸は実体が何もないでしょう?吸う時にはこれが実体なのです。
身体をどんなに解剖しても吸うという物体があるのでなく本質があるのでもない、縁として我々の命を支えている作用がそこにあるだけだから。
吸う作用、吸う働き、吐く作用、吐く働きの自然の無我の、無我になりきるためにまかせきっていかないといけない。
実体がないながら作用がある。実体がないながら宇宙を構成している因果の様子がわかってくる。これが仏法。これが仏性。言葉を神々しくいえば。
今の因果の働きの様子のことをいっている。本来は空である。本来、因縁だけのものであって、個人的な意識やら価値観やら、概念とは一切関わっていない。
だから個人的な意識、認識、分別をとりはずし、じゃ、どうすればいいかというと、どうもせずに一生懸命吸うて、吐いて坐禅していればいい。
こんな話がわかるようになったでしょ!
ただただ本真剣で、深くゆっくり入って、明晰に吸うて、
この繰り返しをやっていたらいい。
そうしたら自我というものはすぐ認めて、理屈を言おうとする。
認めるものが何もないんだということがはっきりしてくる。あってはならんのだ。
今度は法に任せてただやっていればいい。法にまかせるというのはその時その場、その様子に任せて。
そしたら相手がなくなってくる。相手がなくなってくるというのは
こちらの自我がなくなってくる。相手ながら本来一つだということがわかってくる。
天地と同根、万物と一体という言葉がそこに生きてくる。
これが即今底の様子であり、この様子を心底自分の体験を通して
そうだとこの自覚、消息を会得しないと、ツクリモノになるから。
融通がきかなくて役に立たない。
やっていることは同じ。祖師も口で食事をし、目で物を見、足で歩く。
我々と全く同じなのだけど、その消息、そうだということをはっきり
捕まえておかないと役に立たない。
なんなれば癖の自己が出てきて理屈を言うから。
今日、明日が皆さんにとって非常にとても貴重な時なんですよ。
大きな修行において大きなポイントが時節がやってくる。
益々念密に深く没入するようにやるんですよ。
そこには遅い早いがないですから、可能な限り、ゆっくり動作していくことで
深く没入してこの道が開けるから。
粗暴にしないこと。やりっぱなしにしない。
とことんそこに全智を投入しきってやっていく。
そしたらそれ以上やる方法がないから。
別に法はないんです。
続く
- at 22:21
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