今を生きる

スペインはバレンシアからきままに 日記を書いていきます。 今を常に念頭におき、 見性を体験することを大目標にします。

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少林窟道場参禅記2回目(8)

3日目

「菩薩」の法話を終えるとすぐに老師は聞いてきました。

「呼吸をするとはどういうことですか?」


私は息をする音を交えながらゆっくりはっきり息を吸って、吐きました。

もう一人の修行者の方も同じく呼吸をやっていたようです。


今度は「片付けるとはどういうことですか?」と聞かれました。


その方は、何だかちょっと迷い迷い、お茶碗を持ちました。

老師は、「何を躊躇している」と大きな声を出しました。


そして老師は、「歩くとはどういうことじゃ?」と違う質問をしてきました。

その方は何となく自信なさげながらも立ち上がって、一歩を踏み出しました。


老師は、「そうだ、それでいいんだ。」そして、もう一度、

「片付けるとはどういうことだ?」と聞いてきました。


やっと、お茶碗を重ね始めました。

すると老師は、「もっとはっきりゆっくり!」と注意しました。


総勢8名の中で皆の注目を浴びながらの問答は、本当に緊張の渦でした。

後からこの方に聞いたところ、この時、叩かれるかもしれないと覚悟したとのこ

とでした。そのくらい食堂での緊張が伝わってきたものでした。


老師は「今日の片付けは、あなたに頼む。」とひと言。

そして食堂を後にされました。

が、すぐに戻ってこられ、

廊下からすごい剣幕でもう一人の修行者を指さし

「すぐ、禅堂へ」と言いました。


禅堂に戻ると会社のことで悩んでおられた修行者が、

腰をそれは無心に捻っておりました。

私だったら一人問答が分からず、いじけて宿坊でふて寝でも

していたかもしれないであろうに、その修行者は、

この局面においても老師のひと言を守り続け、腰を捻っておりました。


老師を絶対的に信頼して、腰捻りだけを忠実におこなっておりました。

信頼すること、徹底素直になることがどういうことであるかを言葉ではなく、

実際に教えていただき、私の方が大きな力をもらい、

ただ一息にひたすら午後は坐ることができました。


10年前に一度少林窟の門を叩いたことがあるというこの修行者は、

来た時から会社のことが頭から離れず、にっちもさっちもいかず、

老師に個別で何度も相談をされておりました。


時々、夜中に何かすごい音が聞こえてきましたが、

その方がうなされていたことを後から聞き、

妄念妄想で安らかに寝ることもできず、本当にお辛いであろうと、

何もできずにその気持ちを感じとることしかできない自分でした。


下山してから分かったのですが、老師とのお二人での問答の法話がUP

されておりました。


法話(疑問)


疑問

老師
「さ、なんなりと」

修行者
「老師の問答に何も答えられない自分が虚しくて、一息一息と思うんですが、
どうしても考えてしまい、絶ち切って一息と思うのですが、また考えてしまい、どうにも一息にもなりません。それどころか食事に行くのも恐ろしくなってきました。

今回私はどうしても持ち帰って皆と仲良くできるようにでならなければいけません。このままではいかんと思ってご相談によせてさせていただきました。」

老師
「自分でどうにもならんときにはどうしたらいいというとまず師を訪ねること、法を聞くこと。熱心であればあるほど時を無駄にしたくないから。何遍でも同じことでも聞きにくること。

とにかく1点におさまればいいんだ。ということはそういう疑問が出てくる心から自分から離れること。これが突破口の始まりなんだ。着眼点。
素直にただ見るんだよ、何だろうと考えずに。

はい、これ何?

そこでもう考えているんだ。素直に

じゃ、
これ何?
これ何?
頭をとるんだ、見たまま。

これ何?

そこに分別、自己が入ると概念やら言葉がもう暗幕をはってしまうから、わからんようになる。わかろうとしない、素直に。見たまま、事実のまま。

あなたも答えるとしたらどうする。

答えてごらん」


修行者「いままで、、、」


老師
「言葉を出すな!それが迷いだから。

はい、この事実で答えてごらん。
この事実で。
この事実で。

もっと確信を持って、

そうじゃやろ!

じゃ、これは?確信を持ちなさい。
じゃ、これは?
じゃ、これは?

それしかないじゃないか?




何だということでしょ?

あまりにも近すぎるからどうしても近さゆえに近さが邪魔をしてわからんようになるからどうしても探すんんだ。

今が全てであって、もっとも近いことのそのことだから。探すことじゃないんだ、ありのままになればいい。」

老師、お茶を入れ始める。

「だからこうしているときも素直にこうすればいいんだ。」


お茶をつぐ、

「さ、おあがんなさい。

今何をしている?




今何をしている?」


(修行者、お茶を飲み始める)

「どんな味だ?」

(修行者、お茶を飲む)

老師
「言いようがないでしょ?その味だから。言いようがないから初めからそれを言おうとしたり答えようとしたり、そのこと自体が迷いの始まりだから。

素直にこうして。
うまいかまずいかはしらんが、この味は誰が飲んでもこの味なんだ。

塩は誰がなめても辛い。もうそれを触れておる人にとってみたら余分な説明をしなくてもわかる。ということがわかるから言う必要はない。

なのに尋ねられるとなんとか答えないといけないと思うでしょ?
誘い出されてしまうんだ。



どうだ、少しは明るくなったでしょ?」

修行者「でもまだまだ」


老師
「とっかかりっていうのはわずかなんだ。

指一本から入っていくんだ。

それでしっかり確信を持つにいたる。このわずかな着眼が道をひらいてくれる。

あ、そこかと煩悩やら自己、概念やら認識判断を離れた、このありのままのこれが本当の事実なんだということが今わかりかけてきたんだ。

この妄念でわかろうとした世界、じゃなくて、もっと近いところにあると、ちゃんと自然態であるということがわかりかけてきたんだから、自然のままにありのままになっていればいい。

今誰がそれをさしよるんだ?何ものがそうさせよるか?

誰がしてよるか?

考えたらだめよ。
それがそれをしよるんだから。

うっかり自分がしよると言う言葉が飛び出すところだった」

修行者「はい」

老師
「そうなると自分は何か?と責められる。


そうすると答えを出すためにはどうしたらいいかと本気にこうやっていくしかないんだ。

自分は意識の問題であって、ここにどこに自分があるのかなと?突き詰めていくと、これはこれでしか無いという回答に気がついてくる。

誰がこれをやらしているんだ?

これがこれをやっているだけ

なんのためにやっているんだ。

これが縁に応じてやっているだけだから

一切の心。一切の観念から離れて素直に純粋にただるだけなんだ、
これが法なんだということがわかってくる


1+1=いくつだ?
?を言ってごらん。

1+1=いくつだ?」

修行者「1+1=いくつだ?」

老師
「そうそう、それが一番端的だ。

もちろん1+1=2でないといけない。1+1=3になったり4になったり、それはからかう時にはいいけど、法は1+1=2にならないといけないけど、
端的に修行底になると1+1=1+1はいくつだ。とこうなる。

じゃ、無とは何だ?」

修行者「無とは何だ」

老師
うん、無とは無よ。有とは有よ。
バカとはバカよ。

南無阿弥陀仏は南無阿弥陀仏

茶を飲むとはどうすることだ?」

修行者
「茶を飲むとはどうすることだ?」

老師
「オウム返しをいつまでも繰り返していると融通がきかなくなるよ。

お茶を飲むとはどうすることだ?」

修行者、お茶を飲む。

老師
「それしかないんだ。

そしたら君がやっている全てが法だから、素直にやるがままにあるがままに
縁のままに。

余念が出たら、感情が出たら、それが邪魔をするから、入る余地のないほどに一心にやるんだ。

立つとはどういうことだ?」

修行者、立ち上がる。

老師
「歩くとはどういうことだ?」

修行者、歩きはじめる。

老師
「もうなんでもないことだ。

それの一つが立ったり、坐ったり、食事をしたり、大小便をしたり、眠ったりする。
一つことが縁によって流転しているだけだから。
どこにも変わったことないでしょう?

これが今の自由さであり闊達さである。命なんだ。

だから一つことの流転だから。

これが今、今、今を本当にやっていればいいんだ。

はい、そのまま禅堂に行きなさい。

隙を与えたらだめよ。」


続く

少林窟道場参禅記2回目(7)

3日目

「林窟道場のうどんは何故黒いのですか?」

私は、何も考えることなく、休めていたお箸をとり、鍋の中のうどんを掬いました。
そして「少林窟道場のうどんは黒いですか?」と頭の中で言いながら
そのうどんを見ました。


以下老師からの法話で、「菩薩」です。


禅を語るときにまっさきにでてくるのが、もちろん釈迦であるんだが、今日においては達磨大師、そして六祖大師が出てくる。これは正統派に禅を語る時の様子なんです。

その六祖が曰く、「万却に迷えども悟る時は一瞬だ。」

その後が大事なんです。知恵分別、悟って自分が楽になり気にならなくなり生きても死んでも超然とする力を得たとしても、それだけでは釈尊の心には届かない。知恵分別を使って世のために光にならなくてはだめだといういい方をしている。

つまり、経験、学識、分別力、これを十分にいかしなさいということ。

さっきのでもちょっと分別を使ったらすぐできることでしょう?私がちょっと手を添えたでしょう?(食事中に修行者の作務衣の袖がテーブルの上のお茶碗についてしまおうとしたものを、老師がそのお茶碗をどけた。)
大げさにいえばこれが慈悲なのよ。社会的にいえばちょっとした愛、仏教的にいえば菩薩行という。

何も人のためにとか、世のためにとかでなくて、君のためじゃないのよ。私が見てそれが不自然だから。私が納得したいからそれをする。

菩薩の菩薩行は、ためにしてやるというこういう対象があって、強迫的にやるときには菩薩ではない。何気なしにこちらが見てて、子どもが井戸に落ちんとするときに飛んでいって助けるでしょ?それは相手に対して何とかしようとかではなくて、自分が見捨てておけないから。

これを総じて、全体その人となった時、仏という。慈悲の塊になったとき、そういう行為をすることをかえりみずしてそのほうがいいんじゃないか、自分がそう思うからそっと手を添える、それを菩薩行という。スリッパ一つ整えるもの、履物を一つ整えるもの菩薩行。

禅は菩薩行、慈悲の人にならなくては意味がない、慈悲の人になるということは、自我があってはできない。自我を殺すのはバカになることで勇気がいりますよ。自我があってそれを実行しようとすると自分の中に馬鹿馬鹿しいというのがあるから。人のことをしてやる必要がないじゃないかとそこに人が出てくる。損得が出てくる。こういうものがわ~と出てくるのを押し殺してやるのはとても勇気と努力がいる。これを自分の問題としてさらさらやれるのが菩薩。

あなたは会社があったり、人があったり、兄弟があったりしたりしたらとても対立からは免れないから。ただ菩薩行をするように馬鹿になって帰ればいいんだ。馬鹿になるということは意味のない一息がいつまでもできる人。一歩が、こんな何でもないことがをこれを楽しみ、これを愛し、これを大切にしてやっていくことができる。

世間の価値観とは全く違うから。世間で偉い人になっていくための勉強をして、権威をつけて、人よりも上座にいって、人よりも偉そうなことを言いさえしたりしたら偉くなっていくそれとは真逆だから。そういう世間が喜ぶことは人にゆずって、自分は菩薩行をやっていく。

己を必要とされる人に出会って。見てくれる人がいたらとりあげられてくれるんだ。この人に任せておいたら間違いない。こんな大事なことはあの人にしかできないと見てくれる人がいたら引き上げてくれる。これが縁なんだ。

自ら上がろうとしてもがくと、取り憑かれたようにしてがんじがらめになって腹は立つ、認めてくれない。憎しみは出てくる、心の始末がつかなくなる。ところがバカになったら下座、上座そんなことで喜ぶのなんかそれはその人たちに任せておいて、平気でやっていけるようになる。これが菩薩。これが仏の慈悲。



我々は男だから生の生きた人間を生むことは永遠にできないけど、女性はまるごと人を産んで育てる。釈迦も達磨も皆女性の働きだよ。

女性たるものは赤ちゃんが夜となく昼となくあ~でもない、こ~でもないといって、自己存在として生きていくために何でも要求するけど、親はそれに対して何の見返りも認めない、ただ尽くすだけでしょ。

これを神にも仏にも勝る慈悲というのよ。我々人間が何で仏の要素をまるごと持っているかと言いえるかというと母親を見たらわかるんだ。あれは母親でないとできない。寝ても冷めても子供のことが気になって、尽くしきっていく。

こういう本来、慈悲を人間皆持っているから。だから仏の子であるといわれる。全体、それが可能になるようにしていくためには自分が女であることも人間であることも生きていくことも超えていったときにあの慈悲が全体になっていく。

己なくして知恵分別の上にたって、それが一番私が納得できるからそうしてやっていくだけよ。それで知恵あるものは、知恵と財力を司る人たちと相談して
ここに橋をかけようよ、ここに鉄道をしこうよ。この河川を直そうよといって、知恵分別を用いて、今日のようにしてきておるわけよ。

世の中の働きは知恵分別を用いてやっているんだけど、そこに欲が入ると、両者の欲が主体に動いた時に卑しいことが影で起こってくる。
これがなかったら素晴しいことになる。


地球上を眺めてみて、赤道直下においては先進国が存在しないでしょ?亜熱帯地方、日本を含めたヨーロッパ、あの気候の中に戦いもしてきたであろうが、知恵分別を使って、国を発展させて、文化を創りあげてきている。

熱帯地方は今日食べて、今日が満腹ならばいいというところで、将来とか人のためとか国家のためとか知恵分別が働らきかねるかるから。だから残念ながら文明が発達しそこねた。知恵分別を用いて世のため人のため働きかけていくという力が遅れたから。
力を持ったものがドンドンはいってきて、植民地にされて、凄惨な時代を迎えた時代があったでしょう?

知恵分別のあるときに慈悲まできちっと加わったら皆吊るし上げて奴隷にしていくようなことはないんですよ。同じ人として生まれてきての人生、「あなたたちこうしなさいよ」と教え上げていく風にしていかなくてはいけないんですよ。


仏道というものが地球上から消えてしまうと、こういう大乗精神そのものが消えてしまうから世は暗黒になるんです。どんなに片隅でもいいから釈尊の大乗の慈悲の精神をどこかで正統派にきちっと守り伝えていくところがないと。

口では言えてもその道をいかに体得して世に広めていくかという話になったときに煩悩の様子とか、迷いの根源が何であるかわからなくなると、それを救う道もわからなくなってくる。得たいという気持ちがあっても既に暗闇になっているからどっちの方向かわからなくなる。だからどうしてもこの道は誰かが残していかないといけない。
2600年続いてきている中の一番大事な道。

多少の時間を割いてもこれは大事なことだと気がついた人は、自分自信の問題としてこういうところにきて、坐禅修行するんですよ。

この心の根源は2600年の釈尊の源に皆つながっているんです。いつでもどこでも誰にでもできるようになってくるよというのが釈尊の心。そうなるためには自分だけでは駄目だと全体がいつでも見えていないと。そこに知恵分別がいるんです。

誰のことでもかまわないから、ちょっと手を添えてあげる。母親が子どもにちょっと手を添えてあげるのとそれと同じなんです。菩薩とはそれが自在にいつでもどこででもできる。つまり我見がないという働き。

悟って仏になって何も気にかからない。心配も邪念も何もなくなったといって、そういう人のことも見えなくて、それも淡々とやっていればいいんだというところにおりあうと、悟りという牢屋に閉じ込められてしまう。本人だけが救われているから。


それではいけないというのが六祖なんだ。空に目覚め、無を得ても無を自在に使わなくてはいけない。悟りを超えて、知恵分別を使って、より良いことを気がついたことをさっさとやっていくこと。そういう人を育てるということ。

皆さんもその大事な入り口に、ほんの針ほどの穴ではあるけれど、さっと光が見えるようになったでしょう?皆さんもそんな即今底、迷いのところと迷わない事実との境が見え始めた。境目をはっきりしていくことが悟りなのよ。

迷っているとああだろうか、こうだろうかとちょいと言われただけで、何だろうと思うのが凡人。真実がはっきりしたら誰が何といってもこれはこれ。さっきのうどんではないが、何を言われても、白は白、黒は黒、うどんそのものは言葉とは関係ない。それがわかっておったらどんなことを言われようと関係ない。

これに徹底するまでやりなさいよ。気がついても本当にものにしないと、また逆転しますからね。迷いの事項がまだ残っているから。徹した時が、迷いというものの動機がなくなる。自我がなくなるから。ひっかからなくなる。そしたら迷いは本来なかったんだということがわかる。

自我がある間は、わざわざ妄念妄学をもって迷いの世界を創るから。それが気がついた仏の目からしたら何にもないのに夢の中で恐れることはないじゃないか。夢の中で敵に襲われたりするもんだから、怯えていくんだけど。そういう妄念、妄学する癖がぽこっとなくなったら、もう真実だけだということがはっきりして、苦しみのもとや迷いのもとは何も本来なかったということがわかる。



道元禅師のあの名著ですよ、普勧坐禅儀という迷いを解決する経典なんけど、冒頭に

「道元(どうもと)円通(えんづう)」真理、道はもともと皆が自由自在に使っているんだ。目は目をするし、耳は耳をするし、口は口をするし、修行も仏も一切かわったもんじゃない、明らかに皆迷っていない。

「争(いかで)か修証(しゅしょう)を仮(か)らん。」だから、どうして修行じゃなんじゃといっていらんことをする必要がある?ないだろうというわけ。

「宗乗(しょうじゅう)自在。」もうそういう法を皆自由自在に使っているんだ。時至ったら腹も減るし、食べたら満足もするし。

「何ぞ功夫を費さん。」坐禅修行なんて、迷っているから必要とするんだけど、本来は迷っていないんだからする必要はない。

「全体はるかに塵埃を出ず。」全くこの宇宙丸ごと、迷っているもの、汚れているもの、偽物も一切ない。汚れからは脱出して関係ないんだ。

そのことが本当にそうだと合点がいかないために、そうだろうとそれが合点がいかないから、迷うから、今から俺の言うとうりに修行しろといって、そこから具体的な修行方法を論じているわけ。

こういうふうに明らかな人からしてみると囚われるということ自体、いらんことをするからよ。念を立ち上げ、感情を立ち上げ、くしゃくしゃにするから当たり前じゃないか。この癖を取れという。

じゃ、どうやってやるかというとかいつまんでいえば、

「心意識の運転を止め、念想観(ねんそうかん)の測量(しきりょう)を止(や)めて作仏を図ること莫れ。」

つまり、一切の精神行為を一旦やめてしまえ。

覚醒をして目があって、物を見、分別をし、耳あって、人間の声、猫の声、父の声、母の声を聞き分けるこの耳を持ち、目を持ち、全体の感覚器官を持って覚醒しているものがいかにして一切の知的分別を脱出するかと。大課題でしょう?

科学者だったら絶対できない話です。学者では。

そこで只管打坐しろと。禅堂にいては、ただ坐っておれ。何も考えるな。静かに息を整えて、自然に任せて淡々とただやっておれと。

原則として心を持ち出すなということですよ。

要約すればそれだけのこと。これを徹底的にやっておけと。必ず結果が出てくるから。

これが普勧坐禅儀の要約し要約し要点だけをかい摘んだもの。

本来はじめから迷っていなかったんだ。
このままで既に仏であり、真理だったんだというところに行き着くから。

道元禅師のお言葉だから信じざぜるおえない。ただそうなるためには即今底。
本当の坐禅をしないと。

坐禅は禅堂にある時だけが坐禅じゃないでしょう?食べる時には食べるそのことだけになりきる。成り切る成り切るしていると見る底、聞く底、歩く底、食べる底、坐る底、箸を動かす底、皆明瞭にわかってくるから何を聞かれても言われても言葉には用がないということがわかってくるから。

あなたが見事に「このうどんはなんで真っ黒いのか?」ということが分かったか分かっていないか知らんが、これに違いないと思ったと思うんよ。考えによって、論理的にこうだというわかりかたではなくて、これはこれだからこれに違いない。だからああいうふうな行為ができたんだ。それでいいんですよ。

つまり言葉に迷ったら駄目。
言葉は知性の世界だから。知性の世界は迷いを生み出す根本だから。今はですよ。


至りえたら知性がなくてはいけない。知恵分別をたくさん使わないといけない。

「心意識の運転をやめ、念想観の測量を止めて作仏を図ること莫れ。」

修行をして悟ろうなどとさえも思うのもやめよ。

これが天才道元禅師の血を吐くような示唆ですから。

心を使うな!

何を言われても聞いても見ても、今現実の縁のみにやっていけばいい。


今、あなたがたそこのぎりぎりの迷いと悟り、真実と偽物との境が
ようやく見え始めたところ。

ここがポイントです。ますますもって自然体で深く、歩く時には本当に歩いて、禅堂にあっては本当に一呼吸していればいい。

初めも今もこれからもこうして。

疲れとか緊張がたまってきますから折々にこうして身体をひねってあげればいい。

ただむなしく時を送っていればいい。

何の生産性もない、意味のないまま、空っぽにして

己を捨てて素直な自然な一息一息に没頭していけばいい。

これが法に目覚めさせてくれる。癖を取ってくれる。

つまり、本人の努力しか解決策はないということです。


続く

少林窟道場参禅記2回目(6)

2日目の夜

老師の法話が終わると、老師はまた同じ修行者に同じことを聞きました。

「片付けるとはどういうことですか?」

沈黙が続きました。

今度は私のほうを向いて、聞いてきました。

ゆっくりとお茶碗を寄せ、重ねようとしました。

老師は、今日も後片付けを私にお願いするといって、夕食は終わりました。


あと片付けを終え、私も禅堂に向かいました。

お二人の同志が一生懸命ゆったりと腰を捻っておりました。

私も同じく1呼吸、2呼吸、捻り、1呼吸、2呼吸、捻りの繰り返しをただやりました。

気持ちよくって、いくらでも坐っていられそうでしたが、やはり時間が来ると集中力が落ちてきましたので、10時には今日の坐禅を終え、宿坊に戻りました。



3日目

昼食までの間には坐禅を基本に、疲れや集中力が途切れると、捻り、経行以外に宿坊の布団や禅堂に備え付けてある毛布を干したり、台所、居間、トイレ、洗面所を掃除したりしておりました。

宿坊から見渡せる大好きな瀬戸内海もあまり見ないよう心がけておりました。前回来た時には、ちらっとぐらいだったらいいが、また外の世界を思い出して拡散してしまうといけないからと老師に言われておりました。


今日のお昼は、少林窟オリジナルつけうどんです。忠海産、忠海でしか販売していない醤油に少林窟だしが一杯入った、つけ汁です。

私の大好きな少林窟メニューの一つです。禅では食べるとき、普通は大体物音を立てないものですが、この麺を食べる時だけは違います。
契機のいい食べ方、ずるずるっていう大きな音をたてて食べます。

食べ終わって、箸を置いてゆったり他の方たちの食べ終わるのを待っていました。

そこへ、老師が私に聞いてきました。

「少林窟のうどんは何故、黒いのですか?」

前回来た時に、同じ質問をされ、私が答えたのは「はい、黒いです。」でした。

大変がっかりなされて疲れが出たんだろうとかえって私のことを気遣ってくださったのを今でもはっきり覚えております。

その時、老師は何気なくその答えをくださったようでしたが、その点が私にははっきりしないままでした。



しかし、私は間髪いれることなく、お箸を取って、お鍋の中のおうどんをもう一度掬い、顔をうどんに傾けてそのうどんを見ました。


続く

少林窟道場参禅記2回目(5)


2日目後半

老師にバカになって単純なことを徹底してやることの大切さ、集中力を維持するための具体的な法話をいただき、昼食後の禅堂では3人で頻繁に経行をし、腰を捻っておりました。

老師に相談されていた方は、ご自身の会社での進退をこの1週間の坐禅にかけている、そんな印象を受けました。そしてもう一人の方もそれは本真剣で、背中合わせでありながらもそんなお二人の真摯な素直さが禅堂には充満して伝わってきました。

まだまだ2日目だというのに、きっと頭の中は収まりきれずにいるだろうに、それを一生懸命、愚直に老師のおっしゃることを頼りに坐っていらっしゃる同志の様子に、私は大いに力をもらっておりました。



少林窟での一日の流れは、5時起床、朝食は随意、昼食は11時半過ぎ、夕食は5時半過ぎくらいです。といっても起床、就寝時間は修行者の体調に準じ、自由です。禅堂は24時間いつでも坐ることができます。


少林窟道場の特徴をひと言でいえば、型にはめていないことでしょうか。
「こうでなければならない」がないのです。

管理型でなく、本人の菩提心、素直さを一番重んじているように思います。


老師の法話を日頃から聞いて、本を読んでいますと、苦行に対してかなり疑問視されております。

若いころは老師もかなり無茶な難行、苦行をやってこられたとのことでした。


坐る時には意識がしっかりしていないと、その念が入ってくる、念が消えていく瞬間をつかむことはおろか、ずっと念と一緒にいることさえも気づかない念と二人連れの徒労の修行に落ちてしまうものです。


身体を痛めつけてはいけない。身体、頭を常にいい状態で坐禅に臨むことを老師は常々おっしゃっております。

質を重んじ、その一息に対する思いは言葉では表現できないほどです。

どれだけ純粋な一息を守れるか、そこには何にも譲れないものすごい情熱を燃やし、指導してくださいます。


足も結跏趺坐、半跏趺坐に拘らず、足が痛ければ椅子に腰掛けているような状態でも大丈夫なのです。


腰捻りは少林窟独特なもので、雑念妄想を切る法剣の一つです。

身体の疲れが一番大敵と2,3呼吸毎に右に捻り、中央に戻し、左捻りと腰を坐禅中にゆっくり大きく捻ることにより、身体の疲れが取れ、眠気を取り、雑念妄想を切ってくれるものです。


1月の寒い暖房のない禅堂。

私を含め3名の修行者は、柳の木のようなたおやかさとまではいきませんでしたが、”愚直”の2文字にひたすら精進しており、寒さなど全く感じる間もありませんでした。

今日もまた夕食のお手伝いをさせていただこうと早めに台所に行きましたが、古参の方もいらして何もすることがないとのことでした。

木版の鐘の音がなり夕食の時間になりました。
古参の方が二人増えて3人になっておりました。

坐る場所もその都度変わってきます。上の壁に名札が取り付けてあり、それを確認して坐ります。

今日の夕食は、あんかけ玄米小豆ご飯でした。

総勢8人で食事をしていたわけですが、食事中はもちろん一切会話がありません。

音があるのは、かすかなお茶碗をテーブルに置く、またお茶を入れる、噛む音、飲み込む音くらいです。

普段の生活での食事中には、そんな音は全てかき消されているものですが、少林窟道場では耳に伝わってくる音が普段と違いました。

食事が終わると、老師が開口一番「何か質問がありますか?」と聞いてきました。

以下

老師の法話「一息」より

修行者

一息をずっとしていると吐いているか吸っているかわからなくなって、そのままずっといくと、薄い意識の中では吸っているか吐いているかしているんですが、その後に子どものようなものが出てきて、その”子ども”は今は放置しているんですが、そのままでよろしいですか?

老師

自然現象は煩悩妄想で無い限り、自然におこってくる。

心の様子が自然が解決してくれるから、分別をしたり理解したりせずに転がして、ただ本命である一息一息を忠実にやっていけばいい。

一息以外のものに心を取られないようにすること。

何が出てきても捨てることです。

釈迦であろうと、祖師であろうと、出てきたものは全部無視。
取り上げると今のように問題が起きてくるんですよ。

疑問視はあらゆる知的行為を起こさせる原則だから。何だろうかと疑問視の起こらない疑義の念の起こらない人は、何を見てもへいへい淡々なんですよ。

ところが、ひょいと意識をそこにいって、何だろうか?とこういう念が起きた瞬間、解決がつくまでそのことがずっと心のなかにこびりついてしまう。

それほど人間は知的存在なんです。

分からないこと疑問が出てきたらそれを解決しようとする生き物なんです。

これが煩悩のもと。迷いのもと。三界六道を輪廻するもと。

今、正修行に入っていますから、そういう一切の心の作用に触れないこと。

何が出てきても一息で切っていく。

一息は何でも切る法の刀なんです。これを法剣といいます。

法剣を握りしめて何が出てきても切っていく。これに徹すればいい。

最後にはちょんぎるものもなくなる。
ちょん切るものもなくなるから法剣がいらなくなる。

つまり修行という特別なことをする必要がなくなる。

ありのままのただ吸い、ただ吐くに任せておけばいい。

今は法剣がいりますから、離したら駄目ですよ。

切るものもなくなったら法剣もいらなくなる。

つまり特別な修行も邪魔になってきますから、修行ということなしに石仏のように時を過ごしておけばいい。

これを修行無き修行。

これが本当の修行ですから。大自然のままに任せておけばいい。

富士山のごとく、大海の如く。自然界に任せて、自然界のまっただ中に我を忘れてただあればいい。

今のあなた方には法剣が仏祖の命を得るためには必要ですから、しっかり握りしめて真っ向勝負して切って切りまくっていかなくてはいけませんから一息を離したら駄目です。


続く


合掌

少林窟道場参禅2回目 (4)


老師の法話 集中力より


修行に、より効率な手段があるとすれば、もう少し腰を捻ったほうがいいですよ。

腰を捻るというプログラムが脳のなかに全然設定されていませんから。

意識がしっかりしている時は、「捻ろうかな」という判断がくだされるから捻るんですが、だんだん衰退してくるでしょ。

覚醒鮮度が落ちてくると意思も落ちてくるんです。

そうすると呼吸に対する集中力も、腰を捻るという実効性もかくーんと落ちるんですよ。

それだけでその人の心境はそれ止まり。

だから今一瞬を徹底守る力があれば、何呼吸かに一度捻ることを肝に命じ、魂に命じ、意識に命じて観念の固定をやるように意思の固定をやるように自動的にいくようになる。

こうしてまた新鮮な一呼吸になりますね。

呼吸と捻る以外に何も目的を持っていないので、する必要もない。

この単純なことを明晰に明解に堂々とできるるようになったときには、外側に観念が向かって出ていかないので、かなり落ち着いてきているということ。

かなり身と心が近しくなっている。



六祖大師が雲水の一声によって、かちっと決着がついたんですね。

そこで五祖を訪ねていくと、二つ三つの問答をした時に、これは後始末をするだ

けだなというわけで、別誂えして、離れた米つき部屋で米をつかせるでしょ。

単純なことを朝から晩までこうすることによって、悟りをも超え、捨てさせるため。

(中国の唐の時代、五祖大師を訪れた六祖大師との
師弟のやりとりはとても興味深いです。)



ここは春になると草が生えてくる。
皆が麦わら帽子をかぶって、一本一本をこうしてとる。

このひとつ単純な何の意味のないことを本真剣で全身全霊でこれができるようになったらもう悟りは近いんです。

あとは徹するだけ。

あっちこっち念が飛び歩かない。感情が飛び歩かない。雑念が入ってこないほどに純粋に単純に、

無為に無作に無心に一心にこれができるようになったらもう仏に近くなっているんですよ。

だから単純なことを真剣に繰り返すんですよ。

そのことが心の垢、見えない癖、囚われ、金のくさりが結びついていますけど、これを取ってくれるんです。

他に手段方法はない。

単純な一つことになりきることによって、身につけた垢がとれていく。

こういう単純な構造をしているんですが、相手が見えないから他人の手を添えるわけにもいかない、先に待ち伏せするわけにもいかない。こういうやっかいなのが我々の心であり、我見であり癖なのよ。

そのとく鍵は今に徹するしかない。今というのはそのことだけ。呼吸する時は呼吸だけ。

歩く時は歩くだけ、食べる時は一箸、一嚼みだけ。

これしか本当の今も本当の自分も解決する心の癖もそれ以外にはないから。

一つことに対してまじめに本真剣にやればやるほど早いんです。



だからちょっとだけ1週間に1回くらいの半日ばかりの坐禅、もちろんやらないよりはいいけど、これじゃ日がくれて間に合わないんです。

やる時には万事を捨てて没頭してやらないと。

心の癖、何十億年の生命維持本能にまつわる自己中心の癖はそう簡単にとれるわけではない。

やるしかないんです。

道理に取り憑かれている間は実践ができませんから。

行ずるというのは身体の世界ですから。

道理に取り憑かれなくなると相手の言葉にもつまり、人が気にかからなくなるからあいつがどうじゃこうじゃというのが根っこからとれてきますから。

人を対象にして理屈をいっている間は、修行の手がかりのところにもいたっていない。頭がぐるぐるまわっていますから、全てが気にかかる。

実際に本真剣になれるときには頭が外れていますから、あとはいかに行事きるか、今だけをいかに守り切るか、そこにとことん命がけになればいいんです。



禅堂に長くいることは一応の基準としては立派ですが、生身の身体には条件があるんです。

それまでは動きながら仕事してきたから、禅堂にいきなり長くいるから効果があるかというとそんなに単純なものじゃない。

「じゃ、どうするか」というと、いい状態が20分続いたら20分ほど本当に真剣にやって、根が続かなくなった、意識がばらけたと思ったら、状態を変えてやる。

禅堂の経行(きんひん)をしたり、庭を経行してみる。

一番大事な着眼が4,5日すればわかってきますから、外に出て、庭にいって、箒を持って、こうやって一掃いてみる。草を一本とってみる。

本当に一本とれたらいいんです。本当に一本でいいんです。

一本勝負なんです。一息勝負なんです。

一息に思いっきり情熱と信念と全精神とを込めて。

それでも邪魔が入ってくるから腰を捻りなさいと言うんです。

皆さんの状態だと3呼吸も続かないんだから。

これが現実なんだから2呼吸、3呼吸ごとに本真剣に本真面目こうやって腰を捻りなさい。

疲れたら経行をする、眠気がきたらすぐ寝る。目が覚めたら本真剣に坐禅をすればいいんです。




続く

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valenciana

Author:valenciana
スペインはバレンシアに
住んでいます。

インターネットのお陰で
禅の世界に導かれました。

「縁と無常」

あるがまま
ただ生かされていることに感謝する毎日です!


”幼少の頃は夢中で遊んでいました”
いつしかそれがかすんできました。

またあの頃の
感覚を思い出すことが多くなりました。

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